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執着心が現実に投影されている事ってあるのでしょうか?

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こんにちは。
私が考える執着の心による現実への反映について教えていただきたいです。
私は、お金に対しての執着がありません。
40年以上生きてきましたが、お金に困りどうしようって思うこともありませんでした。
もちろん、若い頃はお給料は安くて一人暮らしもしていたので生活が苦しいこともありましたが、それならばとアルバイトをしてしのいでいました。身内にお金を借りてあとから返すこともできたと思いますが、その時は全く考えもせずに普通に深夜のファミレスのバイトをしていました。
そのかわりといっては申し訳無かったのですが、会社に遅刻をして迷惑をかけることもありました。若気の至りだと反省しています。
その後も深夜バイトではないものの、コンビニで休みの日に働いたりして生活をしていました。
社歴20年以上たち、給料もあがり、主任になり、その後係長に昇進もして、お金に困ると事は本当にありません。大金持ちという事はありませんが。
出世欲も全くなく、自分の能力を仕事でいかせてそれで満足の自分でしたが出世という形にも現在なってます。
その別で、恋愛ではいつも付き合う相手から別れを告げられる事が多いです。
恋愛になると自分の心の癖で、相手に依存や執着心が出てしまい、いつも不安的中の結果に陥ってしまいます。
自分が掴みたいと執着という形で思ってしまう事は掴めず、そんなに気にしていない事柄は(私の場合でいうと、お金や出世など)結果、掴めているというような事があるのかなと思いお聞きしたいです。
少し前、引き寄せの法則とかいうのが本などでよく言われていましたが、潜在意識で思う事が現実に投影されるのかなと思っています。
お金と出世には、執着なくて当たり前として掴め、恋愛に関しては、ずっと一緒にいたいのに別れを告げられるかもしれない、またうまくいかないかもしれない。っていう事を潜在意識で思ってそうさせてしまうというような事があるのでしょうか。
そういう事がある場合は、その思いにフォーカスさせない方法、考え方などあれば教えていただきたいと思っています。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

私たちには執着しかないです

ご相談拝読しました。

おっしゃっているような内容、つまり、執着していると上手くいかず、執着していないと上手くいく、といったように執着心が現実に投影される、ということは事実ではないでしょう。

私たちは自分を分析して、自分はあれには執着してるがこれには執着していないなどと分別(ふんべつ)しますが、実際には私たちは全ての物に執着しています。ここまでは執着ではなく、ここから執着、ということではなく全て執着です。私たちは見るもの聞くもの触れるものすべてに執着します。
全財産一文も残らず募金はできないでしょう?

私たちは自分の思う通りに物事が進まない時、その厳しい現実を受け止めきれず、因果関係が結ばれないような自分の都合の良いストーリーにその原因を求めたりしてしまう癖があります。厳しい現実は直視しがたいですからね。

ココロさんの場合は恋愛において上手くいかないのは「別れを告げられるかもしれない、またうまくいかないかもしれない」という潜在意識がそうさせているのではなく、ご自身でもよくお分かりの通り、相手への依存や執着心が言動となって表れてしまっているところにあるのではないでしょうか。
人は相手の心の中までは読めません。でも心の中の思いは行動となって伝わります。自分が相手とお付き合いする中でどう振舞ってきたのかということを直視するところから改善は始まるのではないでしょうか。

しかしこと恋愛においては例え完璧に振舞おうが好きになってくれるかどうか、好きという気持ちが継続されるかどうかは別です。ダメなところが好きなんて人もいるように…。こればっかりはご縁でしょうか。

それでも相手への依存や執着心とどう付き合っていくかは相手がこちらに感じる印象において大きな要素であることは間違いないでしょう。

執着心という心の中に浮かぶ思いは如何ともならない面があります。好きな相手には執着するものです。
でもだからこそ自分に依存や執着心があることと謙虚に向き合い、相手への言動には注意を払っていきたいところですね。

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はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

シンキング・マインド生活から事実・マインド生活へ。

執着とは心の掴み。
無限に変化してやまないものを留める働きです。
けむりをけむりと呼ぶ間に煙は消えてゆくもの。
昨日のお線香の煙、お風呂の湯気を認めて「あの時煙があったな」と振り返るのは今の一念。
思いのなせるワザです。
事実というものには、人間の見解が元々ついていません。
いくら人間が高速で目の前の出来事に対して情報処理をしようとしても追いつかないもの。
ましてや相手は人間。
お金とて山ほど溜めても今日用いるお金は自分の食べるものの代金を財布から一部引き出すという程度。山ほどあっても使い切らずに死んでいく有名人多し。
カネもとどめておこうとする。
人間もとどめておこうとする。
既にその発想が、人もものも死なせていると思って方がイイ。
相手は現実の世界の日々変化する人間です。
ご自身も執着が課題・テーマになっておられますが、人間は人と出会う時に実物と出会っていないということがあるものです。
リアル彼では無く、私という頭ごしに眺めたフィルター越しの相手。
今もその相手を振り返っているのはあなたの頭の中。
そっちの❝小屋❞は全部、マボロシ製造所なのです。あえて小屋と呼びますが。
現実の実物彼は小屋から出て生き生きと闊歩しているリアルという世界に存在しています。
我々が頭のフィルター、小屋越しに観ているのはニセモノなのです。
冒頭に申し上げた煙やゆげのようなものを振り返っているに等しい。
情報化されたものを扱っているのです。だから手ごたえがないのかもしれませんね。
人間が体感する世界は二つあります。
一つは思考の世界・インナーワールド。
一つは事実の世界・現実の世界。
頭のフィルター越しにものをみた思考を中心とした世界から抜け出しましょう。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

吉武様
この度はご回答ありがとうございます。確かに
人は全てのものに執着しているんですよね。。
うまく行かないことを自分なりの解釈に当てはめていました。
書かれていただいているように、自分の中の依存や執着と謙虚に向き合って、人生を豊かなものとなるような心の在り方に近づいて行きたいです。お言葉、本当にありがとうございます。

丹下様
ご回答ありがとうございます。じっくりと一つ一つゆっくりと読ませていただきました。
自分の考えた事のない概念で深く考えさせられました。今はまだ充分に理解できてないかもしれないのですが、目からウロコのお答えでした。無限に変化してやまないものを、留める働き。今を生きていないですよね。相手をフィルター越しに眺めても仕方ない。今という現実に、私が小屋から出て生き生きと歩いて行きたい。そう思いました。私が考えるより、もっとシンプルなことなのかもしれないとも思います。この様な機会をいただいて本当にご縁に感謝いたします。ありがとうございました。

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