人間のエゴは許されませんか?
いつもお世話になっております。
最近、人間はどう生きていけば良いものか、
悩んでいます。
まず私は、肉を食べることに罪悪感を覚え、
ヴィーガンになろうかと悩んでいるのですが
ヴィーガンになって何になるんだろうというのが分かりません。
ヴィーガンになっても、生きている限りは
どこかで間接的にでも他の生物の命を奪わなくては
まともに生きていけないでしょう。
そこで、もういっそ死んでしまいたいと
思ってしまいます。
また、先日私たち家族は、話し合ってペットショップから猫を飼いました。
でも後々になって、ひどく恐ろしいことをしてしまったような気分になって…
人生なにが起こるかわかりません。
ある日突然、家族みんな死んでしまうかも…
ある日突然貧乏になって、猫を養えなくなってしまうかも…
そういうことを考え出したら、
あの時しっかり猫を飼うことに反対していれば、という後悔が止まらなくなりました。
また似たような話で、子供をつくることについてなのですが、
世の中には、「子作りは親のエゴで、子供の同意なく、なにが起こるか分からないこの世に産み出すことは道徳的に良くない」
という主張があります。
子作りが親のエゴだというのは、
私も同意します。
でも、欲しい。…そうなったときに、子供を産んでしまった親は、彼らの言うように、最低な人間なのでしょうか。
許されないのでしょうか。
私は自分のエゴとどうやって付き合っていけば良いのか、もう分かりません。
いっそ死ぬしかないのではと、思ってしまいます。
責任を持つことが大事なのですか?
感謝をすることが大事なのですか?
責任を持つ、なんて、人生なにが起こるか分からないのに、簡単に言えることでは無いような気がしますし
感謝をするのは、私たちに食べられるために殺された動物や植物たちに、許された気分になるためにするだけなのではと、思ってしまって
私は、私が生きていることが、感謝しても済まされないような残酷なことのように思えて仕方ありません。
人間のエゴは、許されませんか。
そもそも、許す許さないの話では無いのですか。
お坊さんからの回答 2件
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正しさという迷い
ゆうりさんこんにちは。ご相談拝読しました。お久しぶりですね。
さて、ゆうりさんは迷っていますね。それももうとてつもなく迷っています。しかしそれは大事な迷いです。是非このまま迷いを突き抜けてその先に行きましょう。
ゆうりさんが陥っているのは「正しさ」への依存です。
こうあるべき
こうでなければならない
誰からも批判されない
理想的な
「正しさ」
そういうものがあるという迷いです。その迷いを生み出している問いは大切なものではありますが、壮大なスケールで考えすぎますと迷宮入りします。今のゆうりさんです。
もう少し具体的に考えてみましょう。
ご質問タイトルの「人間のエゴは許されませんか?」ですが、それは誰に許されないのですか?
家族ですか?友達ですか?動物ですか?世間ですか?命ですか?
誰かがゆうりさんにその生き方は「正しくない」と言ったのでしょうか?
ゆうりさんが許されていないとしたら、そのゆうりさんを許さない存在はただ一人、ゆうりさんご自身ではないでしょうか?
おっしゃる通り人間の生き方に「正しさ」などないでしょう。でもだからといって何でもしていいというわけでもないでしょう。
その私たちが本当に安心して生きられる道は「正しさ」ではなく「迷いに還る」「迷いに立つ」生き方です。
「これでいいのかなあ?どうすればいいかなあ?申し訳ないなあ。有難いなあ。」
そうやって迷いながら生きていくのです。それは感謝して許された気分になる生き方ではありません。
私があれこれ思い計らう以前に許されている…いや、そういうものを超えて存在しているという事実に感動する生き方です。
そして、その感動を忘れて事実を私の思いで踏みにじりながら生きている自覚も促される生き方です。
「これでいいのだ」
と
「これでいいのか」
の間を常に行ったり来たりしながら、私の思いで「正しさ」を握りしめることなく、迷いながら生きていくのです。
安心して迷える道があるのですよ。私の思いより生かされている事実の世界はもっと広いのです。
避けられない苦しみの一つ
ゆうり様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
悟りを開かれて、仏陀となられましたお釈迦様。
そんなお釈迦様と言えども、食べることや歩いて移動されることなどにて、やむを得ずに犠牲となっていたものたちがいたはずで、全くやむを得ない殺生を回避できたわけでは無かったのではないだろうかと存じます。
なぜなら、お釈迦様の応身(化身)としての人のお姿は、我々と同様の不自由な肉体、不自由な身体能力であられたからであります。
いや、お釈迦様であっても、例えば畜生として生まれた者の、その業において、お釈迦様ご自身や、他の誰かの犠牲となるような捕食される苦しみの結果を受けるその者の、その業の結果を変えることはできなかった可能性が高くございます。
それは、因果の流れにおいて業が熟して結果へと向かいだした、その流れは、例えお釈迦様とは言えども止めることができないという一つの例として、「仏の顔も三度まで」という故事にもなった、コーサラ国による釈迦国への侵攻に対して、三度は国境に現れられて坐禅なさられて止められたものの、四度目はコーサラ国の進軍の前についに現れられずに見送られ、釈迦族の悪業による滅亡という悲劇の苦しみの結果、コーサラ軍による殺戮という悪業の結果を止めることができなかったということからも、少しく伺えるところでございます。
いずれにせよ、私たちなど、やむを得ずにも殺生せずには過ごせない、そんな存在としての業をも抱えてしまっていると言えるのであり、この輪廻から逃れられない以上は、避けられない苦しみの一つであるのかもしれません。
何者も犠牲とせずに過ごせるようになるには、やはり、この輪廻世界からの解脱が求められるものとなるのであります。
何者も殺めずに過ごせるような存在となるべくに、あるいは、殺めずに済む世界である浄土(例えば極楽など)へと至れるように、しっかりと仏道に励んで参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
吉武文法様
いつもありがとうこざいます。
なるほど、そうですね…
私はカンペキな正しさがあるものだとどこかで思っていて、それが考えても考えても分からないから、苦しくなっていたのでしょう。
そのせいで、私のどんな行動も、考えれば考えるほど正しくないような気がして、
自分で自分の全てを許せずにいたのかもしれません。
迷いに立つ、生き方…
ご回答いただきありがとうございます。
良い考え方を知ることができました。
川口英俊様
ご回答いただきありがとうございます。
業の結果ですか…苦しいものですね。
死ぬまでは、迷いながらでも
生きていくしかなさそうですね。