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誰も信用できない。

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こんばんは

今、人の事を誰も信用出来なくなってきました。
みんな口だけで誰ひとり真剣に相談にものってくれません。

毎年毎年この時期「11月から12月」にかけて精神状態が安定せず、すぐ人や嫁さんに手をあげてしまいます。たまには本当に殺してしまうのではと思う程に殺意が強くなります。
その度に心療内科で安定剤の注射です。
薬は毎日飲んでますが変わらずです。

前は信用できる人がいましたが、なかなか真剣に相談にのってくれなくなりました。

まわりの人は、みんな無視して知らん顔。信用してた人も知らん顔。正直辛いです。

別に人を殺めるぐらい簡単な事ですが、そうなる前に相談出来る人がいればと思います。
信用してた人って、ここにいます。


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お坊さんからの回答 4件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

信用すべきは相手に「自分の価値観ラベル」が貼り付けられる前

人間はこの世に生まれ出でて、いつの間にか世間や物事を観る時「自分を中心」に物事を観ていることがあります。
自己中心的な目線。
自分可愛がりの目線。
何でもかんでも自分の事と結び付けてしまう目線。
あなたはこの状態で物事を観てしまっています。
まず、一息おいて「ああ、そういわれればそうだったなぁ」と仮に違っていても認めてみることで気持が晴れます。自分が自分のエゴに苦しめられていることを自覚できるからです。
エゴは誰にでも現われてしまうものです。ですが、
自分中心だと世界は苦しいのです。
子供が見たいテレビ番組があってチャンネルを変えられると発狂するかのように泣き叫ぶような状態。
それが、自分中心目線です。
人間はこの世に生まれて最初がそういう状態なのです。
困るのは大人になっても、それが解けないこと。
それを無くせばあなたの悩みは全て晴れます。
人を殺したいほど憎んでいる。殺したってケームショ入って、イヤな奴に出くわして、ますます共感者理解者は得られないでしょう。
もう一度お願いします。
ああ、自分は自己中心目線だったなぁ、とゆっくり息をしながら反省してみてください。
楽になれると思います。
私も差別されたことなんて何度もあります。
ある時から平気になりました。
自分中心目線でなくなったことで、何を言われても、それを自分の土俵に取り込まなくなったからです。また、こちらを責めてくる人間というものは本人が病んでいるという事を知ったからです。
いつでも事実というものは、どんなショッキングな事件であっても「こちらがわ」(私)の精神的な付着物が付いていない、まっさらなのです。
まっさらを受け止められるように工夫してください。
まっさらという事が分かると、どんなに信用ならん奴でも「それはそれとして」「そういう奴」として付き合えるようになります。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

あなたがすぐ怒るから、人は距離をおく

「信用できない」とは、あなたが他人に何かを期待したが、他人はあなたの期待どおりにならない、という意味でしょうか?
だとしたら、それが普通なのです。
誰一人、あなたの思いどおりにコントロールできる他人など、いません。
家族だって、あなたの思いどおりにはなりません。
あなた自身の肉体さえ、あなたの思いどおりには動いてくれないことがあります。
走って転んだことのない人はいないでしょう。
ですから、他人に対してあまり期待しない方が良いのです。
だからと言って、他人を敵だと思えという意味ではありません。
なぜ奥さんにも腹が立つのでしょうか?
何かを期待しているからでしょう?
期待しないであきらめたほうが良いのです。
期待するから怒りたくなる。
しかし、怒ると、周りの人は余計にあなたから離れたくなります。
で、あなたは離れられたら余計に怒る、すると他人はさらに逃げる。
まずは、他人を不快にさせないようにすることが大事では。
家族には、小さなことでも「ありがとうありがとう」と言って、穏やかなお年寄りみたいなキャラをめざしましょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

イライラする以前の事実

先日、私は犬の散歩をしていました。妻の前を犬と歩いていた私は、老婦人二人組とすれ違いました。すれ違う時に、
「あらかわいい顔したワンちゃんねー。」とその老婦人の一人が言いました。隣の夫人に話しかけるように言っていたので私は、特に反応しませんでした。
わたしは、犬を褒められ若干気分がよくなっていました。

その後、妻が「ねえ、今の老婦人なんて言ってたか聞こえた?」
私 「聞こえたよ。犬がかわいいって・・・」
妻 「そのあと、犬はかわいいのに飼い主はかわいくない。だってさ。ウフフ。」

その話を聞いて、私はなんだかイライラとしてきました。老婦人に好かれたいと思っていたわけではないが、人の話から想像し事実が見えなくなりました。

事実はその老婦人が声を発し、私の耳に届いたということ。褒め言葉にしろ、マイナス言葉にしろそこに意味をつけ、煩悩に振り回されたということです。とても残念な話です。事実を見失ってしまっていました。

自分のイライラを人にぶつけることは、事実をないがしろにし煩悩に振り回された餓鬼の姿です。何が事実かを見極める目をもつことが救いの道です。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

毒気深入

僕たちは毒気が深入している身。なのでいくら仏様が正しい事を言って救いの手をさしのべても、その手を信用せず払い除けている。
これが今の僕達の姿です。
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僕達のことを法華経では「狂子(おうじ)」と呼んでいます。
僕達は毒気で正しい判断ができなくなっていると。
仏様はそんな僕達のために「是好良薬(ぜこうろうやく)」を残してくれました。
それが南無妙法蓮華経です。
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意味がわからなくても構いません。
南無妙法蓮華経は僕達のために用意した毒病皆癒(どくびょうかいゆ)のお薬だと、仏様が仰っています。
南無妙法蓮華経を服薬するには大きな声で唱えること。体内に入っていくイメージを持ち声も惜しまず心が落ち着くまで何度何度も唱えるとよいでしょう。

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おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

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