ただただ疲れました。もう死にたいです。
17年連れ添った猫を失い、次の猫も家に来て二ヶ月目に交通事故で失いました。その子はまだ1歳にもなっていませんでした。
なぜあの子達は死ななければならなかったのでしょうか。
なぜ私は失い続けるのでしょうか。
悲しみ以外、涙以外、私は全てを少しずつ失い続けます。
仏様、私はあまりにも愚かです。私には真理を悟ることができません。何もみることができません。
私は死者の出なかった家のカラシの種が欲しい。
あの子が死なずにすむなら、何度でも車の前に飛び出したい。
仏様、私は救済に値しません。もう疲れてしまいました。ただただ疲れてしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
敢えて言うが…最後まで読んでくださいね。
「死者の出なかった家」を、あなたは探してみたのですか。キサーゴータミーは、何日も歩き回ったそうですが。足と体を使い、いろんな人に訪ねて頼んでみたのですか?
私があなたに感じるのは、「どうも物事の一部しか見ていないようだ」ということです。「木を見て森を見ず」的な、ね。「ここに生えているのは赤松だ。だから、この森は全て赤松である」のように。「このご飯も、明日になれば大便だ。だから食べても価値はない」「会うは別れのはじめというのが、この世の理だ。だから誰にも何もしない」式の。
赤ちゃんが泣いているのを見たことがありますか? 生きたいから泣く、私はそう思っています。もちろん、その子もいずれは死にます。「いずれ死ぬんだから、何をしても意味ない」ですか。その子猫は鳴きましたか?貴女は、赤ちゃんのとき、どうでしたか?
もう一つ感じるのは、「仏様に向かった言葉」をネットに書いていることです。つまり、坊さんに問うていることです。私たちは仏様ではありません。仏様のようになりたいと願っている、人間です。ですから、ここまであなたの気持ちが言葉になっているなら、お仏壇に(あるいはお寺にお参りして)それを訴えることをお勧めします。
ただ、「仏様がお答えになるとすれば、こうかな…?」を想像するなら。
「生きている、という状態は、すでに死ぬというタネを内包しているのだよ。死ぬというのはそもそも織り込み済みなのだ。だから、限りある生の中で、自ら学び励み、為すべきことをやんなさい」
「お前のいう真理とは何かね?何か分からんものを、得るも何もなかろう。ただ苦しいのは分かる。自分で背負いきれない苦しみがあるなら、私に預けなさい。私の名を呼び、訴え、すがりなさい」
「お前さんが救済に値するかどうか?それを自分で値踏みしようとするのはなぜだ?自分で自分の給料は決められるかも知らんが、往生については自分の力ではないぞ。人間は皆凡夫なのだから、自分をどう値踏みしても五十歩百歩。自分を下げようが下げまいが、南無阿弥陀仏と称えれば往生を約束するぞ」
私もまた、死にゆく身です。私の父母も、妻も、子ども達も。であるとしても、「木の下は涼しくて気持ちいいなぁ」という日もある。「日差しが暖かいなぁ」という日もある。そうしてシミジミと暮らし、皆と別れる日を迎えるのでしょう。
猫ちゃんたちの墓前で伝えておくれ。
ああ、本当にお気の毒な事…
つぐみさんに飼われていた猫さんたちよ、
つぐみさんと17年も一緒にいてくれた猫さん、そして子猫ちゃんのほうはただでさえ悲惨な交通事故で早死してしまいお気の毒だというのに、
あろうことかあなたたちの飼い主だったつぐみさん自身の手によって、
つぐみさんをとことん絶望させ、著しく疲弊させ、
生きる意欲を奪い、かすめ取り、挙句の果てには取り殺そうとし、
そして仏の慈悲さえも自ら願い下げさせようとそそのかす、質の悪い
魑魅魍魎、悪霊、悪魔、化け猫、もののけの類に今されようとしている。
長年つぐみさんと一緒にいてくれた猫さん、あなたが逝くときはさぞ心細かったろうに、でも命尽きる最期の瞬間までつぐみさんの幸せを願い感謝していたことでしょう。
事故に遭った子猫ちゃん、あなたもほんとうに怖かったろうに。痛かったろうに。
でもね、どうやらそんなあなたちを飼っていたばっかりに飼い主だった者が取り殺されました、ということになりそうだ。
せっかくあなたたちがともに暮らしてくれた飼い主さんは、どうやらあなたたちを”悼む”という事の本当の意味を知らないらしい。本当にかわいそうな猫ちゃんたちよ。飼い主に代わって、この私が謹んで哀悼の誠を尽くします。だから、安心して逝きなさいよ。次は人間に生まれ変わっておいで。
さようなら。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌
hasunoha転落院より
※つぐみさん、ちゃんと伝えてね。
いつでもあなたに
拝読させて頂きました。
その子が必ず仏様に救われて仏様に導かれ仏様の浄土に往生し心安らかになりますようにと切に仏様にお願いさせて頂きお念仏おとなえさせて頂きます。
南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
その子は間違いなく仏様の極楽浄土に生まれ変わり心から安心なさって下さるでしょう。
そしてこれからもあなたを優しく見守り続けて下さいます。
あなたとその子とのご縁はこれからも永遠に続くのです。
あなたもその子を思い真心込めてご供養なさって下さい。
生命は様々なご縁や巡り合わせによって大きく移り変わるものです。
あなたの力の及ばないところにあるのです。
私達は仏様に全てをお願いしただひたすらにお念仏おとなえすることが、そして仏様を信じることが大事なことです。
いつの日かあなたも私もその天寿を全うする時が必ず参ります。その時には必ず仏様に導かれ仏様の極楽浄土に往生させて頂けますようにと真心込めてお念仏おとなえなさって下さい。
必ず仏様はあなたをお導きなさって下さり、そして間違いなく仏様はあなたとその子とを再会させて下さいます。
悲しみや後悔は尽きないでしょうけれどもその思いをそのまんま仏様に手を合わせてお伝えなさって下さい。
仏様はあなたの思いをありのままそのままに受け入れて下さいます。
どうかこれからもその子とのご縁を大切になさり正しく信じて下さい。
いつ如何なる時でもその子はあなたに寄り添い見守り続けて下さいますからね。
迷いウサギの「きっちょむ」ちゃん遷化のこと
つぐみ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
親しくあった動物たちとの別れは、誠につらいもの・・拙生にももちろん経験があります。
犬、鶏、兎・・
もしかすれば身内の死よりもつらいことだってあり得ます・・
特に、迷いウサギのきっちょむちゃんとの別れは本当につらかったです・・
今でもその別れの事をサイトに残してます・・
迷いウサギの「きっちょむ」ちゃん遷化のお知らせ
http://oujyouin.com/usagi.htm
とにかく、清らかなる善き仏縁がありて、悟りへのお導きに与かれますようにとして、精一杯にご供養申し上げました。
この六道輪廻にあるものたちは、皆一様に迷い苦しみの中にございます。
しかし、釈尊は、お悟りを開かれまして、その迷い苦しみを滅するための教えをお説きになられました。
拙生も、貴女様も、また愛しい動物たちも、皆がやがて悟りへと至れることができますようにとして、仏教を学び修していく中で、ご供養を賜れましたら有り難くに存じます。
川口英俊 合掌
ペットより先に飼い主が死んだら不幸
昔、ある有名なお坊さんが、人から「なにかおめでたい言葉を書いてください」と頼まれました。
そのお坊さんが書いた言葉は、「親死に子死に孫死ぬ」でした。
つまり、年長者から順番に死ぬことはめでたいということ。
祖父母より先に孫が死ぬのは悲しいですよね。
ペットが飼い主より先に死ぬのも同じでしょう。
もし逆に、あなたが部屋にペットを残したまま突然死した場合、部屋に監禁されたペットは餓えと渇きの中で死ぬしかないかもしれないのです。
ペットを飼うということは、人間のエゴでもあるのです。
ペットが先に死んでも悲しみ、自分が先に死んでも悲しむなら、ペットと無理心中するしかなくなります。
それはおかしな話になります。
なお、猫は、仏教的な生命の分類では、「畜生道」です。
畜生は、一般的には「人道」(人間)よりも知能が低いので、当然ながら交通事故にも遭いやすい弱い存在だといえます。
ですから、仕方ない面があります。
ペット(畜生)を愛玩するというのは、残念ながらもともとそういうことなのです。
質問者からのお礼
皆様ありがとうございました。
きっとあの子達は諸行無常の理を知らせるために仏より遣わされたのでしょう。
今日あるものが明日もあるとは限らない。だから今この瞬間を生きよ、と。
私はあの子達の教えを無駄にしません。これからも今この瞬間を生きていきます。
本当にありがとうございました。