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赤ちゃんは悟ってる?

回答数回答 3
有り難し有り難し 37

赤ちゃんは悟ってるのでしょうか?

自我がないので諸法無我。
過去も未来もないので将来への不安がないので諸行無常。
偏見がないので心はありのままに物事を見る。
お腹が空いたり痛いことはあっても、それに変な意味をつけれないのでそれ以上の苦しみはなく二の矢を受けず。

これって悟ってる状態じゃないんですか?赤ちゃんを見本とするのは間違っていますか?


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

赤ちゃんは悟ってはいないでしょう。

亀山純史と申します。以下に私の考えを述べさせていただきます。
悟りとは、物事を如実に知ること(「如実知見」)です。つまり、悟りにおいては、智恵が生じなければいけません。ですから、質問者の遠慮さんの表現を用いれば、悟りの境地においては、単に我がないのが諸法無我ではなく、我がないと知ることが諸法無我。過去も未来もないので将来への不安がないのが諸行無常ではなく、全てのものは移り変わることを知ることが諸行無常。そして、ありのままに物事を見るとは、上記の諸行無常、諸法無我に基づいて見るということでしょう。赤ちゃんには、物事の分別はありませんが、それは単なる無分別であって、仏教でいうところの無分別智の「智」が抜けた状態です。
従って、赤ちゃんは悟ってはいないというのが、私の考えです。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

赤ちゃんに学ぶことも大切

本来人間はこうであった。ということを思い出す上で、赤ちゃんや小さい頃のことを参考に考えることは、そんなに間違ってないと思います。
その先の人生の中で、自我が芽生え、見えていたものを曇らせるようになります。一度自我を育て、また自分という存在(捉え方、考えの上での)を無くしていく、つまり自我がないことに気づくということが悟りというところにつながるのでしょう。

小さな子供の行動から学ぶことはたくさんあります。素直で人から憎まれることもない、憎むこともない。そんな生活ができていたのです。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

赤ちゃんは全く悟っていません

「無」「空」に執着すると必ずそうした事を考えるものです。
未発達の者が悟っているなら成長しても悟ったまま成長するはずです。
成長するにつれて悟り得たものを失っていくような「悟り」は悟りではありません。
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悟りとは煩悩から生じるものですから煩悩のない赤ちゃんからは悟りは生じ得ないのです。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

質問者からのお礼

回答ありがとうございます。お礼が遅れてすみません。

どうやら勘違いのようですね。ごめんなさい

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