嫌な人の不幸
過去に苛めたり嫌がらせなどしてきた人が不幸になることがありました。
私は口には出さないだけで「ざまあみろ!」と思ってしまいました。見えないところで思わず笑みがこぼれてしまいました。
そのことに恥じる気持ちと、せいせいした気持ちが一緒になっています。
自分はとても嫌な人だと思います。
どうしたらこんな自分を克服できますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
当然の感情ですが
自分を酷い目に遭わせた人間の不幸を喜ぶのは当然なのに、よくそんなふうにお考えになれるものです。それだけで十分、あなたは素晴らしい人です。なかなかあなたのようには考えられないものです。尊敬します。
私自身を例にとりますと、紹介者であることから仲人をお願いした夫婦と不仲です。その夫婦にしてみれば、押しかけ仲人をする事で得られる金銭だけが目的で、アフターケアやその後の付き合いなどどうでもよかったのです。
したがって、近くの寺にいながらたとえば奥さんと私のところ家内が同じ高校の卒業生なのに、嘘をついてだましていました。関わりたくなかったからですね。でも、同じ宗派のお寺でかつ、同じ高校の通学圏に住んでいるのですから、嘘はバレます。そのため、家内が怒ったのは当然として、頑として家内は私のところの子どもを同じ高校には入れさせませんでした。私もあまりにひどい仕打ちが連続するので怒っています。ちょっとやそっとで文章化できないほどの酷さですから。
だからといって、人を恨んでよいことがあるとは思えません。継続的にひどいことをされているので、怨みを捨てるのは簡単ではありませんが、そんな感情に支配されていては自分がダメになってしまいます。
お釈迦さまは、「怨みでもって怨みを超えることはできない、怨みを捨ててこそ怨みを超えることができる」等とおっしゃり、具体的な実践として慈悲の瞑想を教えられました。すべての、つまり自分にとって好ましくない者の幸せを願う瞑想です。「慈悲の瞑想」で検索してみてください。
私たちの浄土真宗では、すべての者が生来的な罪を抱えており自分自身もまた他者に憎まれ恨まれるような性質をもともと持っていると考えます。私が憎む人も私自身もともにたくさんの欠陥を抱えた煩悩を余すところなく抱えた凡夫であると説かれます。実は私も多くの人に恨まれ、憎まれているのです。本当の話、私はそんな人間なんです。自分が正しいと思うから他者が邪悪だと思えてくるんで、自分も同じ人に迷惑を掛つづけている悪者だとみると他者を憎む怒りが萎えてきます。
しかし、上述したことをあなたは誰に教えられるともなく自分自身で感じておられる。素晴らしいお方だと思います。
その感情は当然のものです。
その方は、日頃から不幸の種をまき、その結果として不幸になった。
また、不幸に対し、あなたから「ざまあみろ」と思われてしまったのも、その人が作った原因の種がつくった結果です。
ただそれだけの事だと思います。あなたがその感情に対し罪悪感を持つ必要はありません。
口に出して言わなかったのも正解です。恨みをかったり、その人を応援している人に嫌われる原因になりますからね。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。慈悲の瞑想を検索しましたが、今の私にはとても難しく感じます。
怨み嫉み私のなかにドロドロとあります。
鳳林寺の僧侶様(ごめんなさい名前が読めませんでした)
ご回答ありがとうございます。
少し楽になりました。せめて私は不幸の種を蒔かないように生きてきたいと思います。
ありがとうございました。
鳳林寺の僧侶様(ごめんなさい名前が読めませんでした)
ご回答ありがとうございます。
少し楽になりました。せめて私は不幸の種を蒔かないように生きてきたいと思います。
ありがとうございました。