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仏教においてのクリスマス

回答数回答 2
有り難し有り難し 16

お世話になっております。

私はクリスマスを大々的に祝う国に住んでおり、SNSを見ると友人たちの家族団欒の写真やらプレゼントへの感謝の言葉やら、はたまたシンプルに祝福の言葉やらが飛んできて、思わず頬が緩みます。かく言う私も日頃お世話になっている道場の師匠や仕事の同僚からプレゼントやカードをいただき、本当にありがたく思います。

さて、感謝や祝福、笑顔の一日であるクリスマスですが、皆様はどう過ごされているのでしょうか。「クリスマスもまた一年のうちの一日に過ぎず。そもそも毎日が感謝と慈愛に満ち溢れているので、特に祝う必要もなし」というのも理解できますし、「キリスト教の祝日なので管轄外です。うちはいつも通りです」というのも納得できますが、もし特別な日と捉えていらっしゃるのなら、少しお話いただければ幸いです。

不躾な質問で恐縮ですが、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

大正天皇崩御

二千年続くニッポン国の皇室はニッポン民族の誇りです。
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12月25日は大正天皇が崩御された日です。
今上天皇は今も妙法蓮華経を読経しております。我々も陛下にならい国家安泰を祈念し法華経読経題目唱題します。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

刻々が大切な瞬間

禅門では無際大師という方のご命日にあたります。
キリストさまの誕生日でもあります。(最近では誕生日ではない説もありますが、キリストさまの縁日であることに変わりはないでしょう)
今日は誰かのご命日です。
誰かの誕生日です。
誰かの記念日です。
そして、一瞬一瞬が素晴らしい瞬間です。
有り難い時です。
そのように捉えて生きていく事が、お釈迦様、キリストさまの心にかなった生活であると私は思っています。ただ、みなこういったことを忘れてしまう。
だからこそ、こういった日に祈りを捧げたり、感謝の念を深くして、自らを省みる機縁とするのは良いことであると思います。
さらには、クリスマス停戦ということがあります。
たとえ一日でも、キリストの為なら戦争をやめられるなら最初からしなければいいのになぁと思います。
争いの中にあろうとする人たちも、そういう人間の愚かしい心に向き合う日であるべきだとも思います。
それが本当の祈りであるからです。
祈りは祈っただけでは無意味。行動に移し、具現化されなければいけないと思います。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

けんしょう様、丹下様、年末でお忙しい中ご回答誠にありがとうございます。

誰かの祝日は誰かの忌日。また、別の誰かにとってはいつもの一日。
そして祝日だから感謝と祈りを捧げるのではなく、常日頃からそうすることが大事なのですね。
一瞬一瞬を大切に有り難いものとして生きること。心に刻みます。

合掌。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ