生きてていいと思えない
両親にしかられるたびにいわれます。 文句しか言わない、自己中、えらそう横暴 何もできない クソ女 あほ面 最近は、幻聴だと思うんですが、悪口 友達に言われた事のある悪口が聞こえてくるようで
無意識にうるさいと言ってしまったり、、、。こんなに迷惑をかけている、私が生きていていいのでしょうか。 私なんてこの世のゴミなんではないでしょうか。
父は、自分がいい大学を出られなかったために兄妹全員をいい大学に進ませようと圧力をかけます、上の二人の兄は父の期待に応えいい大学、高校にいき私の一つ上の兄二人は病んでしまっています。
ですから私がしっかりしないといけないんです。だからその二人の前では絶対泣かないと決めているし、弱音も吐きません。私がしっかりしないと彼らが押しつぶされるから。けれども、もう限界なんです。
演劇部のセリフも頭に入ってこず、、冬休み中に覚えろと言われたセリフはタイムリミットはあと6日なのになにも手付かず。。
私なんていきてても何の役に立たないクズです。 社会のゴミです。
家庭環境が複雑な友達の話を聞いて、そんな事で辛いと言っているのか。と、思ってしまします。その子にだっていろいろあるはずなのに。
なんで私なんでしょう。人間じゃなくてもいいのでは。
人間なんていう頭のいい出来のいい生物に生まれても私のような役立たずにはもったいないんです。
私は私がわかりません。いつも演技している自分がどれが本物なのか、この質問に書いた事だって本当なのか、、、。私はもう疲れました。
どうすれば私は私になれるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
セカンド・ダメージに気づき、セカンド・ダメージを無くす。
「丹下のバカ、アホ、マヌケ、氏ね」と言われたとします。ぶわーん(泣)
ですが、ものの真相は、
「丹下のバカ、アホ、マヌケ、氏ね」というファーストの出来事だけです。
その言葉自体では傷ついてはいないのです。
タダの音声。ただの文字。
そこではじまり、そこで完結。本当はセカンドはありません。
私の耳や眼は、それを情報として受け取ってそこで終わっています。
ファーストのままで終わらせる。
それだけだと傷つかないのです。
事実を重んじていて、情報に重きを置かないからです。
なぜなら、アタマの中で反復しないのですから、それっきり。
諸行無常の一期一会ですから、もう次の今のリアルタイムの事に没頭しているから、巻き戻す必要もありません。
反対に、
その言葉で傷つく方法があります。
それがセカンド・ダメージです。
その言葉を自分の事として引き寄せて、大事にとっておくことです。
そして何度も何度も反復、反芻、無限ループする。
そして、さらにセカンド・ダメージを引き起こす。敢えて引き起こす。
すでに終わった出来事で、何度も何度も自分を傷つける。
敢えて申し上げれば、これが「自分を傷つける方法」です。つまり、それを知らずの内にやってしまっている事が「傷つく」という事の具体的なありようです。
①「丹下のバカ・アホ・マヌケ」(事実)
②その言葉を我が事にする(ひきよせ・わたくし化)
③それによって自分を低評価する(判断・評価)
④(´-ω-`)凹む(精神的自傷行為)
そこに気づいて、自分の人生ですから、自分を苦しめちゃ可哀想ですから、苦しめない様にしてあげましょう。
自分を悪く言うのは、本当は自分なのです。
自分を傷つけちゃうのはいつも自分なのです。
そうだよなぁ、だから私ダメなんだよなぁ…といって、また傷つかないでくださいね?(。-`ω-)
自分の内なる声を聞いて下さい。
あっぽーさん
“生きてていいと思えない”という感情は
両親に言われてきた
“文句しか言わない、自己中、えらそう横暴 何もできない クソ女 あほ面”
という罵詈雑言が
あなたに
“生きていていいと思えない
迷惑をかけている
私なんてこの世のゴミなんではないでしょうか“
という言葉を言わせているのだと思います。
私が思うのは
人間は生まれながらに
他者に(特に親に)無条件に受け止められ、愛されることを通して
自分を肯定し、尊い存在だと頷けるのだと思います。
無条件に受け止められ、愛されなかった存在は
自分の存在を確立させるために
親の期待に応えて、親が押し付ける子供像になろうと
必死に頑張ります。
期待に応えられれば
自分の存在を許せ
期待に応えられなければ
自分の存在を許せず自己嫌悪に陥ります。
“どうすれば私は私になれるのでしょうか。”
とのことですが
親の期待に応える(られない自分は)という思考をやめることだと思います。
“ですから私がしっかりしないといけないんです。だからその二人の前では絶対泣かないと決めているし、弱音も吐きません。”
しっかりしなくていいのです。
泣きたい時は泣いていいのです。
辛い時は弱音を吐いていいのです。
我慢は自分に対する裏切りです。
自分の内なる声を聞いて下さい。
自分を変えるには、自分を大切に。(自灯明・法灯明)
この世に、完璧な人間なんていません。でも、お釈迦様は仰いました。「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法(真理)を灯明とし、法(真理)をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」と。これを「自灯明・法灯明」と言います。完璧ではない自分を灯明としてとは、どういう意味なのでしょうか。それは、完璧な人間ではないこの自分だけれども、「自分が変わろうとしなければ、自分は変わらない」ということです。そして、そのためには、「仏様の教えに依りなさい」と言っているのです。それが「法(真理)を灯明として…」ということです。
では、仏様の教えって一体何でしょうか。それは、「自分を大切にしなさい。」ということです。「自分を大切に」とは、決して自己中でOKということではありません。正しく自分を大切にしたい思う気持ちは、他人を大切にすることに繋がるものなのです。それは、この自分だけが自分を愛おしいと思っているのでなく、他の人も私と同じように、自分が一番愛おしいわけです。みんな、自分が愛おしいのです。ですから、自分のことだけでなく、他人をも大切にしてはじめて、正しく自分を大切にすることが出来るのです。
つまり、自灯明・法灯明とは、「自分が変わろうとしなければ、自分は変わらない。そして、自分が変わろうとするところには、愛おしい自分を大切にすること、それは他人をも大切にすることが出来なければいけない。」ということです。
あっぽーさんは「私なんていきてても何の役に立たないクズです。社会のゴミです。」と言っていますが、そんなことはありません。みんな愛おしい自分を持っているのです。自分で自分のことをクズとかゴミと言ってしまうのは、愛おしい自分がここにいるのに、そしてその自分を大切にしたいのに、それが思うように出来ないからだと思います。
自分を大切にすること、それは他人をも大切にすること。そして、その精神で自分を変えようとするところに、新しい光があっぽーさんの人生に差し込んでくるでしょう。自分を否定することはありません。演劇部のあっぽーさんなら、相手(社会)のことも考えることが出来る人だと思います。
以上が私からの回答です。少しでもご参考になれば幸いです。
能力に見合ったことをしてれば能力が伸びる
家族からの期待、演劇部での役割、つまりは他人のものさしに合わせようとして、辛いのですね。
人の心・感情は変化します。
心の変化は、能力の変化にもなります。
今日のあなたには、今日のあなたの能力しかないのです。
能力に見合ったことしかできないのです。
どうせ、できることしかできないんだから、できることをすればよいだけです。
能力に見合ったことをしていれば、そのうち能力の方が伸びてくれるでしょう。
遠い受験より今日の宿題をやればよいのです。
今の1秒間のあなた以外に、あなたはいないのです。
この1秒間を生きられれば、次の1秒をまた生きてみればよいのです。本当に生きられない苦痛のときは、激痛などですぐショック死するでしょう。