貧乏ならば泥棒しても許されるのでしょうか?
カンヌ映画祭で日本映画「万引き家族」が高い評価をうけたとニュースでみました。
年金と万引きで生計をたてる家族の話らしいのですが、万引きを美化しているようでどうも好きにはなれません。
万引きは泥棒ですし、例え自分が貧しくても他人様のものに手を付けることはやっぱり悪いことだと思うのです。
こんなことを言うと、やさしさが足りないとか、たかが万引きくらいとか、貧乏な加害者の苦しみがわかっていない、とか言われそうですが、万引きされた側にとっては被害者ですし、まじめに働いてるのに泥棒されて、貧しいから社会が許すというのは間違っているように思うのです。悪いことを世の中のせいにして、そこからくる犯罪は仕方ないという捉え方もおかしいと思うのです。
仏教では貧困からくる窃盗をどのように解釈してるのでしょうか?やはり悪いこととはしながらも、どこかで仕方のないことと捉えているのでしょうか?
まあお釈迦様のことですから、例え自分自身の仏像が盗まれたとして、それで一人の盗人が救われたのならそれもよしとお空で笑っているような気もします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
まずは「万引き家族」パルムドール受賞にお祝いを申し上げます。
万引きは社会的にも犯罪行為ですし、仏教にも「不偸盗戒」があり、強く戒められています。
ですので、私もこのような題を冠した作品が賞を受けたことに対し、違和感のようなものは感じました。
一方でこの映画はまだ公開されておらず、私も見ていません。
どんな物事も、その一部だけを見て批判するのは正しい行いではないと思います。
私も作品をみて判断したいと思います。
でもまあ、「ルパン3世」も泥棒行為を称賛するようなお話だし、多くのサスペンスドラマも殺人犯を正当化するようなエンディングですしね。そのような内容を演出したりそれを見ることが、不正行為の助長とはならないと思います。
動機の分析
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
ふと思い出したのが、ヤクザを取り上げた多くの作品のある北野武監督に対して、「あなたの映画の暴力シーンが子供に悪影響を与えてると思いませんか?」とのインタビューに、「世界で公開してる映画の多分70%近くが愛や恋の映画。なのに世界は平和にならないじゃない?もし映画にそんな影響力があるなら世界中から戦争なんてなくなって愛に溢れているはずでしょ?」と返された有名な話であります。
皆、愛や平和の大切さを謳っていながらも、なかなかそうならないこの世界の皮肉を思うところでもあります。
とにかく、私たち人間の行為は、動機によるところで善し悪しが変わって参ります。
動機が煩悩により汚れたものであるならば、やはり行為も汚れたものになってしまいます。
その動機を清らかな善いものに調えていくためにあるのが仏教でもあります。
しかし、かなり難しいことですが、人間には、煩悩の奥底には、生まれながらにして持ってしまっている「倶生の諦執」という「無明」(根本的な無知)がある(正確には、煩悩障)ため、この「無明」の影響下にある行いは、言ってしまえば、ほとんどが良くないものであるとも言えるのであります・・
もちろん、これではほとんどの行為は、悪業となりかねないのですが、そこも少し意識した上にて、仏道においては、できる限りに動機を清らかな善いものへと変えて、行為も清らかな善いものに調えていくことが重要となって参ります。
最初は、煩悩(煩悩障)への対治から取り組みつつ、やがて最終的には、煩悩の残り香のような諦執である所知障への対治を目指していくことになります。
また、世間で定義される犯罪と、仏教において悪業となる行為の問題は、色々と異なっているところがあるため、なかなか両者を同じように議論するのは難しい部分もあります。
窃盗が悪業となるかどうかも、やはり、その動機の部分を詳しく分析していくことが必要になるかと存じます。
川口英俊 合掌
とりあえず、一度この映画を見てみたいですね。
見たら何か分かるのかも知れません。
題名が賞を貰ったのではありません。
内容が賞を貰ったのですからね。
泥棒はもちろんいけません。何故なら悟りへの道が遠ざかるからです。自らの苦しみの原因となるからです。盗まれた人の苦しみも生みます。
お釈迦様はそれで良しとは言わないと思いますよ。きっと、盗みをしないと生きていけないなら出家しなさい、と言われるんじゃないかな。
智慧(能力)が低いと罪を犯す
善をつらぬくには、智慧(心の能力)が必要です。
万引きにかぎらず、罪を犯してしまう人は、能力が低いのです。
仏教では、能力を高める修行を奨励していますが、やはり、生まれもった才能や育った環境によって、能力が低い人はいます。
一方、能力が高い場合は貧乏でも善をつらぬく理性があります。
犯罪は悪いことです。
法律上のペナルティは当然受けるべきです。
しかし、仏教的には、能力が低い人を憎むのではなく、
能力が低い人を慈悲の心(幸せにしてあげたい気持ち)で見て、少しでも能力を高めるように(罪を犯さなくてすように)導こうと考えます。
現実社会でも、家族そろって万引きする人達がいます。
私が以前働いていたお店にも、祖母から孫までそろって万引き常習犯のお客さんがいました。
そのような人達の中には、知的障害とまではいかなくても、それに近い人達もいます。
まともに就職できなかったり、衝動的に罪を犯してしまう人達がいます。
周囲の人に批判されても、能力的にルールを守るのが難しい人達もいるのです。
遺伝や家庭環境もあります。
そういう能力の低い男女が結婚した場合、その子供も同じように育つ場合もあります。
おそらく、全国の、福祉関係の仕事をしている人達にとっては「あるある」話だと思います。
もしもあなたが、そういう子供として生まれた場合、その悲しみは大変なものかも知れません。
弱者の悲しみに思いを馳せるのは、悪いことではないと思います。
質問者からのお礼
たくさんの深いお答えありがとうございます。
なんというか色々考え込んでしまいました。
でもやっぱり悪いことはいけませんよね。