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無知の知×2

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学生の時、道徳(修養?)の授業でソクラテスの「無知の知」を語っている先生がいました。「自分が無知であるということを知っているか否か」って話ですが、その人は時々、頭ごなしに人を怒鳴りつけることがあって、「無知の知に乗っかって優越感に浸っているのかしら…ヤダわあ~」と白けました。

人って誰しも、知識を得たり、心理的に深そーなものを得ると、優越感に浸りたくなっちゃうもんなんだなあと思います。なので、言ってみれば、無知の知はその先にも無知の知があって、そこまで自覚しないと、ただの偉そうな人にしかならないのかしらと。

こういうのってコントロール出来るものでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

機法二種深心

おっしゃる通りですね。我々人間には煩悩がありますから、つい知り得たものを武器にして振り回してしまう危うさをいつも持ち合わせてしまっています。

利養(りよう):自分の利益としたい
名聞(みょうもん):有名になりたい
勝他(しょうた):他人に勝ちたい

といった根深い心が我々にはあるのですね。そんな我々が「無知の知」を単に「自覚」すると言っても、それが我々の心の中だけでのものであるならば単なる「自己反省」になってしまいます。
どこまでいっても「反省できている自分を擁護する自我」が残ってしまうのですね。

そんな私たちが「こういうのってコントロール出来る」かというとそんなことはありません。

仏教は自覚教ではありますが、その自覚は「法(ほう):教え」を拠り所とするものであります。
法によって自覚させていただく、そうでない限りは単なる自己反省というものにとどまってしまうのでしょう。

死ぬまで煩悩の身を生きる身です。「私は知っている」と思い込んでいる身です。だからこそ、真実に暗い「無明(むみょう)」の身であることを法に自覚させていただかなければならないのでしょう。

※タイトルについては興味が湧いたらググってみてください。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生経験も仏法聴聞も、まだまだ未熟な私ではありますが、皆様のお悩みに対し真摯に向き合い、共に悩み共に考えたいと思います。 お話しする内容は「こたえ」ではありません。仏法を聞いてもお金が儲かるわけでも、人間関係に恵まれるわけでも、病気が治るわけでも、何ものにも左右されない心の持ち様が手に入るわけでもありません。 仏法の救いとは悩みが私の思い通りに解決することでなく、どんな悩みも私の現実として引き受けて、悩みながらも生きていけることだと私はいただいております。 悩みを救う(解決する)のではなく、悩む人を救う(悩む私という存在を引き受けていける)のです。 「こたえ」ではなく、「問い」を共有することで、悩み苦しみを引き受けて生きていける一助となれれば幸いです。 【回答について】 後から読み返し、誤字脱字に気づいた際は訂正を入れます。訂正ではなく、お礼コメントへの返信のため追記する場合はタイトルに〔追記あり〕と記載します。 なお、タイトルも本文も字数制限があるため際限なく追記できないこともご承知おきを。
基本的には平日13時~15時のみ対応可能です。お寺の行事、急な法務で対応できない場合もあります。

自分が偉くならないことです。

その先生も自分が高みに立とうとする。
そういう人を見るとまた人は高みに立とうとする心理が生まれる。
悪いこと、おかしなことを正そうとする上で正す方法は沢山ありますが、その人が正しくなるべくやり方を選択すると良いでしょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

知って行わざるは知らざるに同じ

こんにちは。

 知識として知っていても、実践しなければ意味がないですよね。

 常に謙虚さをもって生きたいものです。

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おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoha回答僧登録。 好きな言葉は「和顔愛語」。和やかな顔と思いやりの言葉という意味です。曹洞宗開祖道元禅師は、愛語には世界を一変させる力があると仰っています。回答には厳しい言葉を入れることもありますが、相手を思いやる気持ちがあってこその言葉と捉え、受け止めていただきたいです。 ※質問の答えについて、話の大筋は変えませんが、投稿してから誤字脱字を直したり、内容をよりわかりやすくするため、若干加筆修正することがあります。ご了承ください。 ※「お礼」は必ず拝読していますが、それに対して回答の追記は原則しないことにしています。ご了承ください。 ・回答する件数は減っていますが、ほぼ全ての質問とつぶやきに目を通しています。
話すのが苦手なので、原則不可とさせていただいています。どうしても!という場合は運営さんに問い合わせてみてね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

>どこまでいっても「反省できている自分を擁護する自我」が残ってしまう
…キビシイですね。でも、100%そればかりじゃなくて、何割かは冷静に分析して次に活かそうという気持ちを持てれば、それはそれでいいかなあとも思います…というか、それしか出来ない気がします。無知の知の先の「知」は、コントロール出来ない前提の先にあるのかなと感じました。

>機法二種深心
ググってみましたよー。
「機」は不完全な私たち人間のこと、「法」は如来・阿弥陀さまの皆を救おうとしているお気持ちのこと(?)。その両方がないと「信心」は成り立たない、と。
それでー…えーと…如来・阿弥陀さまって……どゆことですか?(無知でごめんなさい)
なにかの比喩表現でしょうか。なにか精神的なものを拠り所として自分と向き合い、ありのままを受け止めることなのかなあと思ったけれど、いきなりぶっ飛んだ固有名詞が登場したもんで、あっという間に置いて行かれました…

>自分が偉くならないこと
回答下さって、ありがとうございます。
本当、そうですね。その内容について、お聞きしてみたかったです。

>知って行わざるは知らざるに同じ
こんにちはー。ありがとうございます。
そうですねえ…鼻息荒くなってる時はなかなか気づけないんですが、失敗して大ダメージ受けた時こそ、人は謙虚さってものを初めて覚えるのかもしれないなあと思いました…うーむ。

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