hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

無知の知×2

回答数回答 3
有り難し有り難し 57

学生の時、道徳(修養?)の授業でソクラテスの「無知の知」を語っている先生がいました。「自分が無知であるということを知っているか否か」って話ですが、その人は時々、頭ごなしに人を怒鳴りつけることがあって、「無知の知に乗っかって優越感に浸っているのかしら…ヤダわあ~」と白けました。

人って誰しも、知識を得たり、心理的に深そーなものを得ると、優越感に浸りたくなっちゃうもんなんだなあと思います。なので、言ってみれば、無知の知はその先にも無知の知があって、そこまで自覚しないと、ただの偉そうな人にしかならないのかしらと。

こういうのってコントロール出来るものでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

機法二種深心

おっしゃる通りですね。我々人間には煩悩がありますから、つい知り得たものを武器にして振り回してしまう危うさをいつも持ち合わせてしまっています。

利養(りよう):自分の利益としたい
名聞(みょうもん):有名になりたい
勝他(しょうた):他人に勝ちたい

といった根深い心が我々にはあるのですね。そんな我々が「無知の知」を単に「自覚」すると言っても、それが我々の心の中だけでのものであるならば単なる「自己反省」になってしまいます。
どこまでいっても「反省できている自分を擁護する自我」が残ってしまうのですね。

そんな私たちが「こういうのってコントロール出来る」かというとそんなことはありません。

仏教は自覚教ではありますが、その自覚は「法(ほう):教え」を拠り所とするものであります。
法によって自覚させていただく、そうでない限りは単なる自己反省というものにとどまってしまうのでしょう。

死ぬまで煩悩の身を生きる身です。「私は知っている」と思い込んでいる身です。だからこそ、真実に暗い「無明(むみょう)」の身であることを法に自覚させていただかなければならないのでしょう。

※タイトルについては興味が湧いたらググってみてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

自分が偉くならないことです。

その先生も自分が高みに立とうとする。
そういう人を見るとまた人は高みに立とうとする心理が生まれる。
悪いこと、おかしなことを正そうとする上で正す方法は沢山ありますが、その人が正しくなるべくやり方を選択すると良いでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

知って行わざるは知らざるに同じ

こんにちは。

 知識として知っていても、実践しなければ意味がないですよね。

 常に謙虚さをもって生きたいものです。

{{count}}
有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

ありがとうございます。

>どこまでいっても「反省できている自分を擁護する自我」が残ってしまう
…キビシイですね。でも、100%そればかりじゃなくて、何割かは冷静に分析して次に活かそうという気持ちを持てれば、それはそれでいいかなあとも思います…というか、それしか出来ない気がします。無知の知の先の「知」は、コントロール出来ない前提の先にあるのかなと感じました。

>機法二種深心
ググってみましたよー。
「機」は不完全な私たち人間のこと、「法」は如来・阿弥陀さまの皆を救おうとしているお気持ちのこと(?)。その両方がないと「信心」は成り立たない、と。
それでー…えーと…如来・阿弥陀さまって……どゆことですか?(無知でごめんなさい)
なにかの比喩表現でしょうか。なにか精神的なものを拠り所として自分と向き合い、ありのままを受け止めることなのかなあと思ったけれど、いきなりぶっ飛んだ固有名詞が登場したもんで、あっという間に置いて行かれました…

>自分が偉くならないこと
回答下さって、ありがとうございます。
本当、そうですね。その内容について、お聞きしてみたかったです。

>知って行わざるは知らざるに同じ
こんにちはー。ありがとうございます。
そうですねえ…鼻息荒くなってる時はなかなか気づけないんですが、失敗して大ダメージ受けた時こそ、人は謙虚さってものを初めて覚えるのかもしれないなあと思いました…うーむ。

「心構え・生きる智慧」問答一覧

カッとなって人に当たってしまった

人生で初めて、カッとなって人にやり返した自分自身に絶望しています。 先日駅を歩いていたところ、広い場所だったにもかかわらず後ろから歩いて来た人が思いきり私にぶつかってきました。 普段であれば「感じの悪い人だな」と思い受け流すところなのですが、ここのところ仕事のことで精神的に余裕がなかった私は、ぶつかっておいて謝りもしないその人に対し本気で腹が立ちました。 一度その人を見失ったのですが、駅のホームに出たところ件の人が向こう側から歩いてきたのでやり返してやろうとあえて私もぶつかりました。 すると、件の人は私の方を見て「何すんの馬鹿!」と怒鳴ってきたため私はようやくそこで我に返りました。幸いといっていいものか、その人は私に絡んでくることなく去って行ったのですが、いくら自分が先にやられたからといって(そもそも件の人がわざとぶつかってきたのかも分からないのに)やり返してしまった自分の幼稚さが恥ずかしく、心から失望しています。相手が怪我をしたらどうするつもりだったのか、いずれ同じことを繰り返してしまうのではないかなど恐怖や不安も押し寄せてきてしまい、怯えています。また、人の目の多い場所だったので、私が自分の過ちを責められる分にはいいのですが、たとえば私の知人がその光景を目撃していた場合、身内にそのことが耳に入ったら悲しませてしまうのではないかとも考えています。 もう二度とあんなことはしないと誓ってはいるのですが、自分という人間の汚さを自覚して消えてしまいたいとすら思います。 他人を傷つけておいて身勝手ではありますが、どうすればこの苦しさを和らげることができるでしょうか。 また、何かをされても人を憎まずに済む方法が知りたいです。

有り難し有り難し 1
回答数回答 1

自信がほしいです

いつもhasunohaのお言葉を胸に前に精進しております。 似たような悩みばかりで申し訳ございません。 イラストを始めてSNSでたくさんのいいねを貰うようになりましたが、この数値が増えても一向に自信は付かず、してみたかったことで現在はバンドサークルに入り音楽をやっております。 ただ、どこにいても疎外感を感じて、継続する予定ではございますがこのままでいいのだろうかと悩んでおります。 自分のしてみたかったことである音楽制作とかもして、色んなことに手を出してはいますが私は結局どうなりたいんだろうといつも考えてしまいます。 いつも1人でなんでもしちゃう性格で、それは自信のなさや完璧主義の表れだとは考えてます。 勿論完璧な人間なんていないことは理解しております、私は特に人との会話を盛り上げたりアウトプットしたりするのが苦手で人と話しているときはいつも頭がパンクしております。 逆に多少の孤独には慣れているのでこういった1人で努力することは嫌いではなく、成長を実感できます。 イラストと音楽を始めたのは好きな人に振り向いてほしいという下心が始まりでした、本当の意味でしたいことは好きな人と話すことなのかもしれません。 ただ、他人の気持ちはコントロールできないので今自分にできることを考えるとどうしても今は自分を成長させるタイミングなのでしょう、私に課せられた課題とも捉えてます。 私ができる他人に与えられることはイラストと音楽だと信じて前に進むべきでしょうか、根拠のない自信でもいいのでお言葉を頂戴できれば幸いです。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

一喜一憂

23才の娘の恋愛に干渉しすぎている自分が嫌になります。娘は2ヶ月ほど前に知り合った男性と連絡を取ったり、時々出掛けたりしています。付き合っている訳ではありません。 何故付き合わないの?とか、2ヶ月たっても付き合う気配が無いなら相手にその気は無いんだから辞めたら?とか、口うるさく言ってしまいます。 娘が時々、相手の事を楽しそうに話をしてくる時は私も楽しい気分になったり何処か安心感があります。 何も言ってこなかったり口数が少ない時は何かあったのかな?とか、最近、相手の子と電話してるのかな?とか余計なお世話な心配ばかりしてしまいます。一喜一憂している自分が本当に嫌になります。そっとしておいて見守るのも必要!!って事も本当に分かっています。でも、つい干渉してしまいます。自分の思い通りにならないとイライラしている自分がいます。 娘をコントロールしようとしている自分がいるのかもしれません。娘の周りの友達は彼氏がいるのに何故ウチの子は彼氏がいないんだろう…何が原因なんだろう…とか。 冷静になると本当、自分自身、おかしな事を考えているなぁと思います。 私自身、どういった気持ちの持ち方をすればいいのでしょう? 過保護すぎて干渉しすぎる自分が本当に嫌になります。

有り難し有り難し 5
回答数回答 1

物損事故を親に隠しています

いつも皆様には助けていただいております。 初めて来たお店の駐車場で空きがなく迷っていたところ、間違えて別の施設の個人用(?)の駐車場(かなり狭い)に入ってしまいました。そこで出ようと車をバックしたときに壁の角にぶつけてしまいました。 ぶつけたところは虫食いみたいな小さい傷が3〜4つ並んである程度。、元から駐車場全体が老朽化していてボロボロで他のぶつけ跡もいくつかあったため「どうすれば良いかわからなくて怖いし、目立たないから大丈夫」と魔が差し、この場から去ってしまいました。後から他人の所有物を傷つけて逃げたことに対しての罪悪感で苦しくなり、駐車場の管理者に電話で事情を説明し、「弁償しに伺います」と例の駐車場へ戻りました。 管理者の方につけた傷を確認してもらったところ「2万円でいいよ」とその場で先方が決めた修理代を払い、証拠として領収書も出していただきました。最後に自分の連絡先を書いた紙を相手に渡し、その場は丸く収まりました。 車にもキズが出来てしまい、親に見つかり「どうしたの?」と聞かれたとき、他人の駐車費でぶつけたという勇気がなく「ちょっとうちの敷地で…」と嘘をついてしまいました。 先方からは一度も連絡がきていませんが、いつ嘘がバレるか…とヒヤヒヤしています。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

心配症と不安(親の病気や死)

自分の性格は心配症です。 例えば車を運転していたら、この角から人が飛び出してくるかな?自転車に乗った人が急に来るかも?反対車線の渋滞した車の間から人が出てくるかも?と心配になります。 本題は、自分の親がもし病気になったら、亡くなったら耐えられないと、不安に襲われることです。 いま現在、両親はありがたいことに健康で生きていますが、急に病気にかかるかもしれない、急に亡くなるかもしれないと考えると、不安で仕方ないです。 歳を取ったことによる両親の体の不調が、もしかしたら大病(がん、心臓や脳の病気等)かもしれないと、急に不安で心配でたまらなくなります。 心配し出したらきりがないですが、最近はとても不安でたまりません。 もちろんいつか人間は亡くなりますが、自分が両親の病や死の時を迎える時、耐えられるのか、どう対処したらいいのか、分からずにいます。 大切に育ててくれた両親がいつまでも健康で長生きしてほしいですが、いつかはやってくる別れの時を想像すると、不安で仕方がありません。 どのような心構えでいるべきか、不安に襲われた時はどう対処したらいいか、教えていただけないでしょうか。

有り難し有り難し 22
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ