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無知の知×2

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有り難し有り難し 57

学生の時、道徳(修養?)の授業でソクラテスの「無知の知」を語っている先生がいました。「自分が無知であるということを知っているか否か」って話ですが、その人は時々、頭ごなしに人を怒鳴りつけることがあって、「無知の知に乗っかって優越感に浸っているのかしら…ヤダわあ~」と白けました。

人って誰しも、知識を得たり、心理的に深そーなものを得ると、優越感に浸りたくなっちゃうもんなんだなあと思います。なので、言ってみれば、無知の知はその先にも無知の知があって、そこまで自覚しないと、ただの偉そうな人にしかならないのかしらと。

こういうのってコントロール出来るものでしょうか。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

機法二種深心

おっしゃる通りですね。我々人間には煩悩がありますから、つい知り得たものを武器にして振り回してしまう危うさをいつも持ち合わせてしまっています。

利養(りよう):自分の利益としたい
名聞(みょうもん):有名になりたい
勝他(しょうた):他人に勝ちたい

といった根深い心が我々にはあるのですね。そんな我々が「無知の知」を単に「自覚」すると言っても、それが我々の心の中だけでのものであるならば単なる「自己反省」になってしまいます。
どこまでいっても「反省できている自分を擁護する自我」が残ってしまうのですね。

そんな私たちが「こういうのってコントロール出来る」かというとそんなことはありません。

仏教は自覚教ではありますが、その自覚は「法(ほう):教え」を拠り所とするものであります。
法によって自覚させていただく、そうでない限りは単なる自己反省というものにとどまってしまうのでしょう。

死ぬまで煩悩の身を生きる身です。「私は知っている」と思い込んでいる身です。だからこそ、真実に暗い「無明(むみょう)」の身であることを法に自覚させていただかなければならないのでしょう。

※タイトルについては興味が湧いたらググってみてください。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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自分が偉くならないことです。

その先生も自分が高みに立とうとする。
そういう人を見るとまた人は高みに立とうとする心理が生まれる。
悪いこと、おかしなことを正そうとする上で正す方法は沢山ありますが、その人が正しくなるべくやり方を選択すると良いでしょう。

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有り難し
おきもち

知って行わざるは知らざるに同じ

こんにちは。

 知識として知っていても、実践しなければ意味がないですよね。

 常に謙虚さをもって生きたいものです。

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有り難し
おきもち

・曹洞宗/静岡県/50代 平成27年鳳林寺住職。平成28年hasunoh...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。

>どこまでいっても「反省できている自分を擁護する自我」が残ってしまう
…キビシイですね。でも、100%そればかりじゃなくて、何割かは冷静に分析して次に活かそうという気持ちを持てれば、それはそれでいいかなあとも思います…というか、それしか出来ない気がします。無知の知の先の「知」は、コントロール出来ない前提の先にあるのかなと感じました。

>機法二種深心
ググってみましたよー。
「機」は不完全な私たち人間のこと、「法」は如来・阿弥陀さまの皆を救おうとしているお気持ちのこと(?)。その両方がないと「信心」は成り立たない、と。
それでー…えーと…如来・阿弥陀さまって……どゆことですか?(無知でごめんなさい)
なにかの比喩表現でしょうか。なにか精神的なものを拠り所として自分と向き合い、ありのままを受け止めることなのかなあと思ったけれど、いきなりぶっ飛んだ固有名詞が登場したもんで、あっという間に置いて行かれました…

>自分が偉くならないこと
回答下さって、ありがとうございます。
本当、そうですね。その内容について、お聞きしてみたかったです。

>知って行わざるは知らざるに同じ
こんにちはー。ありがとうございます。
そうですねえ…鼻息荒くなってる時はなかなか気づけないんですが、失敗して大ダメージ受けた時こそ、人は謙虚さってものを初めて覚えるのかもしれないなあと思いました…うーむ。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ