亡くなった人に対して手を合わせる時
度々こちらで質問させていただいています。今回は悩みというよりふと感じた疑問なのですが、ご回答いただけたら嬉しいです。
もうすぐ母の命日なので今度の休日に地元に帰ることになりました。詳しくは聞いていませんが、水あげをすると言われているのと、おそらく時間があればお墓参りもすると思います。
そこで知りたいのですが、亡くなった人のお墓や仏壇に手を合わせる時、心の中で何を思えば(言えば)いいのでしょうか。テレビドラマなどでよく見るのは生きている家族の近況報告(子どもが生まれたり結婚で家族が増えたりした時などに)をしているイメージですが、それで合っていますか?今まで何度もお墓参りをしたり仏壇にお線香を上げて拝んだりすることはありましたが、私はただ漠然と「みんなのこと見守っててね」というくらいでした。
正解があることなのかもわかりませんが、ご意見を聞かせてください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたのとらわれを解き放つ
なにもなければただ手を合わせればいい。感謝でもいい。
生前こんな事を伝えたかった。生きていたらこんな事をしたかった。などのあなたの思いがモヤモヤとあなたの中で捉われとしてあったなら、その思いから解き放つように、手を合わせたらいいのです。
そしてスッキリできればいいと思います。
お母様に対する思いがなければ、自分が存在できている事に感謝をしたらいいと思いますが。どうでしょうか。
浄土真宗では亡くなった人に対して手を合わせることはしません
亀山純史と申します。
浄土真宗の立場からのお墓参りについて、私の考えも織り交ぜながら、お話をさせていただけたならばと思います。
ご質問のタイトルが「亡くなった人に対して手を合わせる時」となっていますが、私の回答のタイトルは「浄土真宗では亡くなった人に対して手を合わせることはしません」です。意外だったでしょうか。葬儀屋さんはよく私に対して手を合わせます。私がお通夜や葬儀等で葬儀屋さんの会館に到着すると、係の人が手を合わせて私のことを出迎えてくれます。しかし、浄土真宗においては、「人に対して手を合わせる」ということはないのです。手を合わせる方向はどこまでも阿弥陀如来です。『歎異抄』の第5条は、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。」で始まります。これは、「私、親鸞は、父母の供養のために、念仏を称えたことは、一度もありません。」ということです。では、墓前にてお参りするとき、「亡き人を思ってはいけないのか。」と言えば、そうではありません。「念仏は亡き人のためのものではない」ということであり、お墓参りは墓前にて亡き人のことを偲び、その人の人生から、今こうしてお参りに来ている私たちの人生を振り返ること、亡き人から自分の「いのち」「生死」を見つめ直すこと、そういった機会、ご縁であると言えます。そして、墓前にて念仏を称えることで、亡き人も含めて、今こうして生きている私たちにかけられた阿弥陀如来の働き(本願力)に触れさせていただくのです。そうして、その念仏はまた、阿弥陀如来への感謝の念仏にもなるのです。
以上、私からの回答です。宗派によって解釈が違うところもあろうかとは思いますが、どの宗派でも墓前において「亡き人を偲ぶこと」は同じだと思っています。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。今までは何となく手を合わせて漠然とした気持ちが大きかったので、勉強になりました。