人生を認められません
自分が思い描いてきた人生から外れてしまいました。
それが自分で認められず、でも軌道修正も出来ず、今後生きる意味を見失っています。
ずっと思い描いていた人生は、人に「ありがとう」と言われる仕事をし、家庭では子供を設け、家族に囲まれること。
あと色々な人と切磋琢磨して自分を成長させること、でした。
でも現実は…。
早くに結婚し流産し、すぐ妊活をしましたが途中に夫からの非協力で他人事な酷い事を言われ、この夫婦関係で子供を健全に育てる自信が無くなり夫婦生活をやめました。
何度も離婚を考え、一時期別居もしました。
その間に私は経済的自立をしようと目論み、仕事を頑張り、理想の転職が叶いましたが身体を壊しました。
原因は夫の私の仕事への無理解と、離婚に対しての周りからの圧力、それと自分を過信し過ぎたオーバーワークでした。
私は躁うつ病と診断され、会社も退職せざるをえなくなり、今は沢山の精神安定剤を飲んでも寝込む日々です。
社交的だった過去とは違って自宅で塞ぎこんでいます。
こんなはずじゃなかった、どこから間違ったのだろうと、平均寿命を半分過ぎた頃から後悔ばかりしています。
自立したくても病状で働きに出るのが難しいので、離婚も出来ません。
出来て当たり前、出来なければ嫌味ばかり言われる家事にうんざりする毎日です。
知人友人達が子育てやキャリアアップ、自分磨きをしているのを知ると妬ましく思うようにもなり、それで更に自己嫌悪と自分の人生の無意味さを痛感してしまいます。
健康だった過去の私は欲張りでした。
それを悔い改めてこの先を見渡しても、生きやすい生き方が見えてこないです。
結局何も残らなかった人生。
無理な事ですが…いっそのこと人生の痕跡を消せたらいいのにとも思います。
今の自分が認められません。
こんな私に突破口となる教えがありましたらご教授頂けたらと存じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
自己のアクセル空ぶかしにご注意
車でもこうやればいいはずだ、こうすればいいはずだと思っても道理にかなっていなければ燃費をいたずらに消費するだけです。
この自己というものも正しい心の在り方というものがあります。
自分の意志ではよいと思ってもうまくいかない。
相手にこれ良かれと思っても相手からは受け入れられない。
相手がこれ良かれと思ってしてもらえたことでも気に入らない。
何ゆえに受け入れてもらえなかったり、こちらも気に入らないのでしょう。
それは事前のわたくしルールという設定が強いためです。
自分は自分を立てると自分濃度が強くなります。
こちらの文章をご覧いただいている時にも、事前にこういうことを言ってほしいなぁという思いが強いとこの文章も空振りです。構いませんが。
同じ話を百人が同時に聴いてもわからない人が多いのは、その人たちがアタマの中で自分流に聴いてしまうということがあるのではないでしょうか。
本を読むのにもニュースを見るのにも先読み、深読み、自己流読みをすると伝える側と受け取る側でずれてしまうことはあるものです。
人間は自分濃度の濃さで苦しむものです。
誰もが自分の我が強いとは思っていません。
それでも苦しいことがあるということは自分の我のでっぱりによってどこかにぶつかっていたりするものです。
我を無くすには、我の起こりが生ずる前を知ることです。
もともと我なんてどこにもありません。
もともと我なんてものはないと言えばないのですが、自分を立てることで曲げられなくなるということがあるのです。
引っ込みがつかなくなってしまった我ともいえない程の小さな我が誰にでもあるのです。
そこに完全敗北、いつでも負けれらるようになることは人生において最も大事な自己教育です。
まだ途中ですけど。
素晴らしい人生を送れるよう描いた設計図が、ことごとく外れてしまった。
その結果・・・ということでしょうか。
大抵の場合は、自分の描いた通りに人生が展開することは、ほとんどないと思います。なぜなら、それでは人生として面白みがないからです。様々なアクシデント、山あり谷あり、障害ありで、その時々にどのように乗り越え対処していくかが、成長というものです。
今日までの人生を振り返った時、アクシデントをどのように乗り越えたかの結果が今の姿です。
そして今なお、その渦中に、現在進行形ですから、答えも出ていないし、これからどうするかによって変わってきます。
今の自分を認めれない。とのことですが、まずは認めてください。すべて自分の判断で出した答えの結果ですから。何度も言いますが、まだ途中です。今までのことを糧として、よき原因を作れば良き結果がでます。少しだけ方向転換されたらどうですか。