喜びも悲しみも何も感じたくない
何かに挑戦する気力がありません。
仕事は好きで、色々あるけれど日々の生活に感謝しています。
しかし、仕事以外に何もする気にならず、仕事と家の往復のみ、そんな毎日を送っています。
感覚が麻痺しているというか、挑戦して傷つくことが怖いから自分を守っているというか。
何に対しても無気力になってしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
苦しみを糧として
今、あなたは満たされていますか?
日々の生活に感謝はしていても、満たされなさがある、でもこれ以上踏み切る勇気という気力がないのではないですか?
本当は喜びも悲しみも感じたいから、そうではない今が満たされないのではないですか?
でも本音を言えば喜びのみを感じたいと考えるのが人間です。みんなそう「思う」のです。私だってそうです。だから悲しみを感じるくらいなら今のまま安全なところにいようとも「思う」んです。
でも、それはどこまでも「思い」なのです。思いは自我意識が生み出す「都合」です。この「都合」が満たされることが喜びだと人間は「思い」ますが、真の喜びとはこの「都合」や「思い」が破れた世界、超えた世界にあるのです。
マズイ食べ物を食べたこと、友達とケンカしたこと、失恋したこと、仕事で失敗して怒られたこと…どれも都合は悪い事です。できれば経験はしたくないものです。
でも、それだけではない。めんどくさい・煩わしい・ウザイ・悲しい・辛い・苦しい…その中にも喜びはあるのです。
仏教の象徴は蓮の花。ここはhasunoha-ハスノハ。蓮は泥の中に根を伸ばす。泥は苦しみの象徴。蓮は泥を避けるのでなく、泥にまみれて、泥を栄養として活かして、やがて泥に負けない美しい花を咲かせます。
苦しいその時は自分の都合の悪さに「こんなことならやらなければよかった」としか思えないかもしれません。
でも本当は、自我意識を超えたあなたの本心は喜びも悲しみも引き受けてキレイな花を咲かせたいと願っています。
いきなり、無気力からひるがえって気力が湧くことは難しかもしれません。でも少しづつ挑戦していく中で、苦しみながらでも不思議と身も心も活かされていく、そんな道が開けますように。
仕事が楽しいと思える、素晴らしいことです
仕事が好きでいいじゃないですか。それが生きがいになるのでしょう。虚しいこともないでしょう。仕事の工夫を楽しみの一つにしたらいい。家庭がつまらなければ、美味しいものを食べることでもいいじゃないですか。趣味のようなものがあってもいい。
やる気が出なければお寺のお勤めに参列したり、坐禅会や写経会いまはヨガの会など様々ありますので、そういうものに参加したりするのもいいですね。興味はない後から湧いてきますよ^ ^
質問者からのお礼
過去にストレスから精神的にひどく病んでいた時期があったので、苦しみ=悪だと思いこんでいました。
苦しみの中に喜びがあるとは思っていませんでした。
今は洋服を選ぶ気力、なにを食べるか決める気力なども失っていましたが、勇気を出してやってみたい事に挑戦してみようと思いました。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
興味は後からわいてくるものですよね。
今の仕事も何となく始めたのですが、やってみたら意外と楽しかったです。
今では仕事中が人の為(社会やお客様の為)に役に立っていると唯一感じることができる幸せな時間です。
今回質問させていただいて、自分が何をしたいのかわかりました。
自分のことばかり考えずに、もっと人のためになることを積極的にしていこうと思います。