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過去に過ちをしてしまった

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有り難し有り難し 64

過去に人に言えない過ちをしてしまって、今、同じ事は繰り返さないと誓い、良い行いをして生きています!過去に人に言えない過ちをしてしまった人は、彼女を作る資格はないでしょうか?ずっと独身のままで生涯終わりを迎えるまで、いたほうがよろしいのでしょうか!僕は、来月で、40歳になります!正直、好きな人がいます!この人と付き合いたいと思っています!けど、過去の悪いことがあるので、打ち明ける事などできません、仕事も、恋も、みんな駄目になってしまうと思うので、怖いです!どのように生きれば、神様は救って下さいますか、教えて下さい、お願いいたします!懺悔もんのお経をたまに、口ずさみながら、仕事しています、同じ過ちは二度としてませんので、良いアドバイスありましたら、教えて下さい、お願いいたします!


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

来世は極楽浄土。あとはこの世をどう過ごすか。

過去に過ちを犯した人でも、恋愛や結婚はできます。
相手さえオッケーしてくれるなら。
で、彼女ができた場合に、過去の過ちを何もかも話す必要はないでしょう。
しかし、結婚する(相手が結婚を期待している)場合には、いずれバレるようなことなら前もって話しておきましょう。
長くつきあってさぁ結婚というときに打ち明けて結婚がダメになったら、相手に悪いでしょう。
恋愛するなら、相手のことを第一に考えてください。
また、仏教では嘘はつかないほうが良いので、罪をわざわざ言う必要はないけど、嘘をつかないと隠せないような過ちについては、嘘をつかずに白状するほうが良いです。

もしも、その過去を話したことで仕事もダメになると思うんだったら、職場以外の人と恋愛するほうが安全でしょう。

浄土宗では、どんな悪人でも南無阿弥陀仏と念仏をとなえて極楽浄土に生まれたいと願えば、臨終の瞬間に阿弥陀仏が迎えに来てくれて救われると考えます。
恋愛できてもできなくても、念仏すれば往生できます。
罪がばれてもばれなくても、念仏すれば往生できます。
恋愛への執着も悩み苦しみの原因になります。
あまり執着しないほうがあなたの平安のためになるでしょう。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

過去に悪党でも今日から一生まっとうに生きれば今日からの善人

何も過去の全てを洗いざらい話す必要はないでしょう。
相手の女性だって、過去にこんな男性とこんなことがあったわ何とことを事細かに話す必要すらない。
今、何をされていますか?
そこで起こっている事も過去の一部。
そんな事は全部話さんでもいいのです。
あなたが懺悔すべきことはあなたが懺悔すべきことで彼女は関係ない。
詫びるべき相手は彼女ではなく、当の本人。
もしくは宗教者である我々に懺悔告白しなさい。
あなたがずっと誰にも話せず抱えておられるから苦しいのでしょう。
私のもとにも殺人して警察に発覚していない人や世間の闇事件の加担者も懺悔に来られます。
宗教者には守秘義務がありますので、それを口外してはいけない義務があります。
地元か旅先の信頼できそうな僧侶に話を聞いてもらって仏前で懺悔されてはいかがでしょうか。
曹洞宗の大本山総持寺では4月の10日から17日まで報恩大授戒会という儀式が行われています。
その中の15日に行われる懺悔道場では禅師様が自らお一人お一人に面と向かって罪を滅除して下さるありがたい儀式があります。参加される事をお勧めいたします。
おそらくご自身の宗派でもそういう行事が本山で行われていると思います。
禅風に申し上げれば、あなたは自分の過去を今という時を用いて何度も思い返して牛のように反芻しているのです。思い起こすのは仕方がない。思い起こして自責することがあなたを苦しめている。
だから心底からの懺悔が必要。身も心も清廉潔白になるためには、仏前で自分の罪に向き合い発露することが大切なのです。
修証義の2章をご検索ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!執着しない様にして生きます、

念仏したいのですが!どのようにするのですか?

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ