自灯明・法灯明の真意とは
大乗経典はあたかもお釈迦様が直接に説いたかのように書かれた物語的なものが多くあるといわれています。お釈迦様以降に悟られた方が、仏教のすばらしさを広く一般の人まで広げることを目的にしたのでしょうか。
大乗経典には、きらびやかな極楽浄土や荘厳な仏国土、功徳のすばらしさなどなど珠玉の言葉で埋め尽くされているように感じます。
先輩が口をすっぱくしていうことには、「経典に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけない。そもそも信じるとは「知らない」ということだ。20メートルの崖から「信じて」飛び降りる人はいない。飛び降りて死ぬということは判り切っているから「信じる」必要がない。「信じる」というのは「知らない・体験がない」ということに他ならない。仏道は「体験」してなんぼのものだ。言葉はすべて方便であり、言葉では表現できない実体験で確認するものだ。坐禅和讃の最後にある「当所即ち蓮華国 此身即ち仏なり」を体験しなさいということでした。死んでから極楽浄土へ行くのではなく「今ここ」で体験する。因縁によって生まれてきた意味は、体験することだ。」ということでした。
「自灯明・法灯明」の真意は、修行を先行させ法によって確認せよということでしょうか?
体験できるかどうかもあやふやな修行よりも、お念仏によって西方浄土で修行したほうが効率的ではないでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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お店の前で迷っていても始まらない
言っちゃ悪いのですが、ぶっちゃけそこの所は大して重要ではありません。
上座部のスマナサーラ長老は「自分が不完全であると認めなさい。不完全であることが普通だと認めることで〔いいんじゃないですか、それで〕と気楽にいられる。だからこそ上手くいかないときに瞑想に取り組める」という主旨のことをおっしゃっています。(『サンガジャパン』22号)
これ、どこかで聞いたことある考え方ですね。そう、浄土門の「末法の世の我々は完全な生き方をすることができない。だからお念仏をしましょう。」
お念仏は『ルーツとしては』坐禅と一緒です。時代と共に色々言われるようになりましたが、『元々は』黙って坐っていたかブツブツ言いながら坐っていたかの違いだけですから。
実際、瞑想も坐禅も他力本願も、結局のところ「俺が俺が」「私が私が」という自我を止めて、無我を活性化するという同じことしかしていません。その無我であるということを上座部では「目覚めた人」と呼び、禅では「本来の自己」と呼び、浄土門では「阿弥陀さまのお導き」と呼んでいるだけのことです。
結局、末法とか来世とか浄土あたりのワードを取っ払ってしまえば、同じことしか言っていないんです。
自灯明か西方浄土か…本質的にそれは木彫りに黒字・金箔捺しの看板と、ネオンぴかぴかの看板どっちが良いですかという程度の問題なのです。それこそ方便です。だから大して重要ではありません。
今ある仏教とは2500年間、インド圏から中東へ振れて極東に至り今日では欧米にまで、何桁におよぶか想像もつかないほどの人々のフィルターで濾過され続けてきたものです。お釈迦さまにせよ阿弥陀さまにせよ、仏説というのはその2500年に対して貼り付けられたメイド・イン・ブディズムのラベルです。
私はかえってその方が1人の教祖・1柱の神格に拠るよりも信頼できると思うんですけどね。話は逸れますが、宗教宗教したものにアレルギーを持つ最近の人たちの感覚って、仏教国で生まれ育っただけのことはあるんです。ただ一神教と多神教の違いに無知なだけで。そこのところもっと知って欲しいなぁ。もちろん新興宗教とは別物と分けた上で…です。
最後に、スマナサーラさんは自灯明・法灯明の真意とは「四念処の修行に励みなさいということであり、自分で考えろという意味ではない」という主旨のことを書いていらっしゃいました。
私はそうは思いません。
「信じる」ということは「知らない」ということでは無く、「知る」ことの延長線上にあるのだと思います。
知らないことは信じることなどできません。
知るからこそ信じることができるのです。
自灯明とは自分を拠り所としなさいということ。
法灯明とは法(縁起、この世の理)を拠り所としなさいということ。
坐禅、念仏、仏教、キリスト教、無宗教、今の自分には何がいいのか、それだけで無く人生における沢山の選択肢においても、法に照らし合わせて自分で判断しなさい、ということです。
質問者からのお礼
どんな修行であっても自我をだんだんと減らし、無我へと向かうということがよく分かりました。
これからは、四念処の修行にはげみ、「我が身」かわいいさから起こる軋轢から離れ、この身に降りかかる苦も楽も不苦不楽もそのままにいただいていきます。
我が身にたいして、「何とかしてやる」という自我の声を諭し、この我欲から自由になりたいと思います。
一切の感受に対して己の分別を持ち出すことなく、見えるのは見えるまま聞こえるは聞こえるままに。単なる情報でしかないのだから、良くも悪くもない。情報に対して、分別を持ち込まずそのままに。
眼も耳も、そもそも執着などは持ち合わせてはおらずただの機能として働いている、機能は機能のままに働いてもらいます。
「諸行無常」を観じ、全ては移ろい生滅変化していると正しく見る。常住不変のものはないので、所有するという観念から自由になる。欲望に振り回されることもなく、与えられたものをありがたくいただく。
「諸法無我」を観じ、絶対的な統率者や制御しているものなど存在してはいない。我々のしていることは行住坐臥。起こることは、縁起によって起こっているにすぎない。自分をことさらに立て求めずとも、あらゆることは成されていく。
回答ありがとうございました。日々修行に励んでまいります。
合掌