お裁き
先日、最愛の母を真言宗で見送らせていただきました。
葬儀会館の方は『これからお母様は四十九日まで、家族で共に過ごされたお家や、ご自分の生まれ育った所、訪れた場所、数々の所縁のある場所を巡られます…』と、お話してくださいました。
四十九日までの、七日ごとの法要も辛さの中、こちらで皆様に教えて
いただいたように個人の成仏の為にと出来る限り祈りお願いをしてまいりました。
そんな中、先日改めて四十九日までの『お裁』きにつて詳しく調べてみました。
その余りにも生々しく苦難の連続に思える道のりに、また故人への思いが溢れ出し、自責の念と共に今すぐ傍に行って助けてあげたいと思うようになりました。
そのように子供が後を追ってきたような親の魂は、更に惨い裁きを
受けてしまうのでしょうか?
稚拙かも知れませんが、このような裁きを受け苦難の四十九日の間に所縁の場所を巡るなど出来るのでしょうか?
『死』の時もあれだけ苦痛であったのに、『死後』もまたこのような
苦痛の連続だとは…あまりにも惨過ぎる気がいたします。
もうすぐ四十九日を迎えます…。
どのような気持ちで、どのような事を心掛ければ、少しでも故人の苦痛は和らぐのでしょうか?成仏させていただけるのでしょうか?
何度も同じような疑問をぶつけてしまっているかも知れませんが、どうかどなたかご教授お願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
亡き人は「事実」を教えてくれる仏様
ご相談拝読しました。同じようなご質問でも納得のいくまで何度でもご質問ください。何度でもお答えさせていただきます。
まず何度でも申し上げたい事は、亡き人の苦痛と、美千様の苦痛についてきちんと分けて押さえましょう。今美千様が苦しんでおられることはどちらの苦痛なのか。
美千様ご自身が苦しいのか、亡きお母様が苦しんでいると思うことが美千様の苦しみになっているのか。亡き人が苦しんでいると考えているならばその根拠は何なのか。想像に過ぎないものを美千様が亡き人は苦しんでいると決めてしまってはいないかどうかということです。
お母様の死はご病気ににより確かに苦しいものであったのでしょう。しかしその苦しさの内容や感じ方は本人にしかわかりません。
では死後はどうか。死後の今もなお亡き人は苦しんでいるのか。今回美千様が根拠としてあげたいわゆる「お裁き」は十王信仰にもとづくもので、それは仏教が中国に渡り、当地の道教と習合していく過程で成立した偽経に基づくものだと思われます。
この辺は学者の研究的な内容になるのでややこしそうですが、おそらく原始仏教にこういう考え方はありません。
ですからそれは亡き人が実際に裁きを受けて苦しんでいるということではなく、亡き人を思うあまり、亡き人が苦しんでいると考えた人々が作り出した物語です。
私たちは物語からも実際に影響を受けますらその時その物語ははたらきとして事実となるわけですが、どうせなら美千様が救われる物語に出会いましょう。
私は美千様のお話を伺っていて、苦しいのは美千様ご本人だとお見受けしています。後悔のあまり、ご自身の苦しみをお母様の苦しみに重ねてしまっている。だから救われなければならないのは美千様なのです。
亡き人の成仏は残された者の心にあります。美千様がお母様をもう苦しむことのない仏様として見いだせた時、そこに美千様の救いとお母様の成仏が両立するのです。
お母様が今もなお苦しんでいるという「想像」と、今、美千様が苦しんでいる「事実」。その二つが絡み合う複雑な苦しみは向き合うのに時間がかかると思います。ゆっくりでよいのです。
亡き人は命の終わりという「事実」を私たちに伝えてくれます。それを受けて「ああではないか?こうではないか?」と「想像」するのは残された者、つまり美千様です。
供養をとおして「事実」に向き合っていきましょう。