清らかになるために死んでしまいたいのですが
今までのまだ短い人生で、沢山の失言、失敗、罪を重ねてきました。見栄を張ったり、調子に乗ったりと。
私は美しいものが好きです。とはいえ、清らかなものが全てだとは思いません。芸術もやるのですが、ドロドロとした気持ちを見つめ直すことの大切さも感じます。人間らしさも必要だと。
しかし、自分の事となると、やはり「清らかな水のようなもの」に憧れてしまう。私は中身も外見も醜いのです。だからこそ、空気のように、灰のようになりたいのです。失言をして人を傷つけ、自分を貶めるならば、物言わぬものになり、溶けるように消えてしまいたいと、ずっと思っています。
それが美しくない私の逃げだと、自覚はしています。しかし、毎日、「あの人ともっと上手く話したかった」「こんな情けない姿を晒したくなかった」「もっとスマートに過ごしたい、恥ずかしい」「嫌われているのではないか」など失敗と反省を繰り返すことに、疲れ、透明なものに憧れます。
質問なのですが、清らかなものになるために死ぬというのは、罪なのでしょうか?この憧憬の気持ち、切ないほどの透明への憧れを、どうしたら良いでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
この世の因があの世の果を生む。
こんにちは。亀山純史と申します。
「清らかなもの」とは、一体何ですか。煩悩のない状態を意味しているのですか。この世もあの世も縁起なる世界です。この世での因があの世の果を生むのです。ですから、来世において煩悩のない状態を望むならば、この世で自らの生活を省みていくことが大切なのであり、決して「死」という選択肢を選ぶことではありません。
そして、透明なるもの(煩悩のない状態)への憧憬があるならば、この世で仏さまとご縁を結ぶことです。仏さまとのご縁とは、自分の仏さまを見つけることです。私は阿弥陀如来とのご縁に恵まれました。阿弥陀さまは煩悩まみれのこの私のために誓願を立て、今この私のために働いてくださっている仏さまです。
ただし、仏さまとのご縁に恵まれても、この世でこの私が清らかな存在になることはありません。むしろ、この私が如何に清らかな存在から程遠い存在であるかが、仏さまによって明らかにされるのです。しかし同時に、「このような私が仏さまの懐の中に生かされている」ということにも気づかされるのです。つまり、私自身は清らかな存在ではなくても、清らかな存在(仏さまの世界)の中に生きることが出来るのです。
以上が私からの回答です。少しでもこの回答がお役に立てれば幸いです。
「清らか」とは何でしょうか?
仏教的には「清らか」とは「分別しない」ことです。
例えば手に泥が付いているとします。
普通は泥は汚れであり、泥が付いていると手は汚れていることとなり、泥を水で洗い流して手が清らかになると私達は考えます。
しかし仏教的にはそうではありません。
手と泥を分別しません。
手も泥もただそこにあるだけです。
手も泥も同じように存在している。
ただそれだけのこと。
ですから、泥は汚れでは無いし、手は汚れていません。
汚れというのは私達の先入感や思い込みが勝手に作り上げたもの。
泥が付いていても手は汚れていないのです。
泥は汚れでは無いのです。
あなた自身に置き換えて見るとどうでしょう。
あなたにはたくさん後悔することがあったのでしょう。
嫌いになる部分もあるのでしょう。
しかし、それらは汚れでは無いのです。
そして、あなたは汚れてはいないのです。
ではこれまでの失言や失敗は何か?
それは汚れでは無く、あなたをより成長させる為の肥やしです。
失敗は成功の母と言いますね。
同じ失敗を繰り返さないように努力してくださいね。
そうすれば少しずつ成長するはずですよ。
自分の過ちをちゃんと自分で把握して、その反省もできるあなたは、私には素直で真面目で清らかに見えますよ。
「不垢不浄」
相田様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「清浄」(しょうじょう)とは何か・・
仏教における「清浄」というのは、色々な表現により説明されるところとなりますが、一切のモノ・コトには実体が無いという「空性」のことを示すところでもあります。
もちろん、世間的なる清い、汚いというものにも、実体は微塵も無い、「空」であるということになります。
般若心経の「不垢不浄」ということであります。
そして、「空性」を理解していくことにより、亀山純史様もおっしゃられていますように「煩悩」の無い境地、根本的な無知である「無明」を断じた境地を目指すところとなります。
是非、仏道により真なる清浄なる境地へと向けて努めて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆さま、お忙しい中私などのご回答いただきありがとうございます。
亀山様、三宅様、川口様、どのお答えも感じ入るものがありました。
私のような透明でない者を、透明でないものとして認め、泥であると認め、その上で汚れではないと仰る。それだけで私は有り難い気持ちになります。
無明、空。煩悩の無い場所。仏様の懐。決して行き着く事はできなくとも、確かに存在するそこに向かい、道を進む事は、果てしなく苦しいのでは無いかと思います。生きる事はなぜこんなに苦しいのだろうと今日も思います。けれど、同時になんて有り難い事だろうかと、尊い事だろうかと想いを馳せると涙が出てしまうのです。そしてその分、また苦しくなります。
そうやって、まだ少し生きてみようかと思います。皆様のように仏様の一番近くの道を歩む事はできなくとも、心の中に何かある度に仏様の存在を感じ、苦しくも有り難い思いを抱えていこうかと思います。
お三方、ありがとうございました。
また宜しくお願い致します。