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覚えるための詩
仏教に三蔵(さんぞう)があります。
経蔵(きょうぞう)・律蔵(りつぞう)・論蔵(ろんぞう)
この経律論の三蔵によって仏教は後世に伝えられています。蔵とありますが土蔵のような建物ではありません。文章です。
経とは、お釈迦さまの教えを『覚えるための詩』にしたのが始まりです。時代と共にお釈迦さまの真意はこういうことだったはずだ…という研究レポートの詩の範囲にまで広がっていきます。
律とは、お坊さんの集団の『規則』集です。規則集といっても六法全書のような法律集というより、服装や食事、生活態度についての指針が大半を占めます。
論とは、経に対する『解説書や注釈書』です。つまり経は覚えるためのもの、論は理解するためのものです。
最近の人は本を読んで勉強し、学校のテストみたいに意味を答えられるようになることが理解だと思いがちですが、こういう認識は物が豊かになったバブル期に広まったものです。もっと昔のお坊さんはそうやって本で読んで分かった気になることを「インスタントじゃ。ケシカラン!」という感覚です。まずは全く分からなくてもいいから丸暗記し、生活の中で「あっ!こういうことだったか!」と腑に落ちることが理解なのです。たしか酒井大岳老師だったかな?戦前のお生まれの老師がそんなお説教をなさっていました。
その覚えるためのものがお経ですね。
お経というより読経という行いには瞑想としての意味合いもあると私は考えています。
まぁ、一概にお経と言いますけど、もっと分かってくると色んな意図目的の色んな経典があるんですけどね。
「月を指す指」
しん様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
経典をよく私たちは「月を指す指」という表現にて説明致します。
仏法真理、悟りというものは、「戯論寂滅」や「言語道断」と申しますように、本来、「ことば」で表し示すことのできないものとなります。
まあ、表した途端に、それが囚われ、執着を起こすラベリング的なものとなってしまうため忌み嫌うのでありますが、ただ、完全に否定してしまうものではありません。
例えば、龍樹大師の「中論」においては、「観四諦品」(第二十四・第八偈~第十偈)『二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。』、『およそ、これら二つの真理(二諦)の区別を知らない人々は、何びとも、ブッダの教えにおける深遠な真実義を、知ることがない。』、『〔世間の〕言語慣習に依拠しなくては、最高の意義は、説き示されない。最高の意義に到達しなくては、ニルヴァーナ(涅槃)は、証得されない。』とありますように、仏教の真理を説くのであれば、まずは世俗の言葉などの表現手法(方便)を用いて説くしかなく、ある程度、世俗の思惟分別・言葉・言語にも頼らざるをえないというところであります。
経典は、「真理・悟り」(月)を示すための架け橋となる大切な「方便」(指)であるのであります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました