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快、不快に執着してしまうココロ

快も感じなく、不快も感じない、そんな状態が俗にいう退屈であると聞きました

それと人は快に執着しそれを得ようとします
そこで快を得ることはできるかできないかはわかりません

ex)友達と遊びに行く予定をいれ楽しみという快を得る
1無事遊びに行けた→快
2中止→不快

1の場合、一旦快を得たにもかかわらず、遊びに行って喧嘩をしたり事故にあったりと快を求めるせいで、いたちごっこになります

こういう快不快を繰り返し生きるのが人の人生であり、だからこそ

快に執着せず生きていけば楽になるよという考えでいました

しかし快も不快も感じない退屈な状況に戻ってしまうのはもちろんいやだと思います

だから自然と快に執着してしまうのではないでしょうか

私は文章を構成するのが苦手で分かりずらいものになってしまっていると思います

理解できた範囲でご回答お願いします

世の中・自然
有り難し 8
回答 2

質問投稿日: 2018年8月28日 23:35

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

永続しない

ご質問を拝読させて頂きました。
仏教の深淵な所は、不快に執著しないだけでなく、快にも執著しない所です。
なぜ、快をも否定するのか。
一つはあなたが仰るように、求めても得られるかどうか分からないからです。
しかし、それ以上に強調されるのは、世俗の快は「一時的」に過ぎない事です。
美味しいものを食べても直ぐにお腹が空くし、ブランドもののバッグを買っても季節が変われば、また新しいものが欲しくなる。
釈尊は、このように快を満たしても、また新たな快を求めるスパイラルの中で世間の人々が一生を終えていく事に、「それで良いのか?」と言っているのです。
そして、この一時的な快を求めるのを止めたときに、「本当の楽がある。」と説きました。

そのような考えに魅力を感じない人が居るのも当然で、それはそれで勿論良いと思いますよ。
単に仏教と縁が無かったというだけの話です。

23日前

「空と縁起」

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

快も不快も、本来は、実体として存在しているものではありません。「空」ということでありますが、「空」であるからと言っても、無いわけではなく、「縁起」、つまり、色々な因縁(原因と条件)に依りて成り立っているものとなります。

ある意味では、快も、不快も因縁によりて現れてしまっているもので、諸々の因縁次第となりますが、もし、コントロールできる因縁があれば、どうにかできますものの、どうにもできないものは、やはりどうにもできないのであります。そこは、諦めが必要となります。

諦めなければならないことがあるのは、仕方のないことですが、しかし、永久永遠に変わらないわけでもありません。全ては因縁次第。

快、不快を(実体視して)囚われてしまわずに、善き因縁に依りての善き結果へと向かって参りたいものとなります。

特に仏教では、悟りへと向かうための因縁に取り組むことが求められるところとなるのであります。

川口英俊 合掌

23日前

質問者からの有り難し - お礼

皆様ありがとうございました

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