因果応報
因果応報について質問です。
お釈迦様は悪業は悪の結果しか残さず、
善業は良い結果しか残さないと言われていますが、
簡単な例として泥棒が人の金を盗んで豪遊し良い思いをする、と言うような内容は金を盗むという悪業に対してまだ結果に到達してないということですか?
この場合の豪遊して良い思いをすると言う結果は過去の善業のものという理解で良いのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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善悪とは
仏教における善悪感と世俗(社会通念上のもの)における善悪感を混同すると混乱しますので注意ましょう。
仏教における善悪は悟り・涅槃に近づくのが善、遠ざかるのが悪です。
「人の金を盗んで豪遊し良い思いをする」について私たちはうらやましかったりねたましかったりするかもしれませんが仏教的にみればなんらの苦の解決にもなっていませんし、むしろ欲に溺れている在り方でしょう。
私たちの善悪というのは所詮、その時における私の都合に適うかどうか、です。都合が変われば善悪の基準もコロコロ変わるのが私たちの姿です。
そうではなく、自分の都合という善悪の基準に振り回されている私の姿に目覚めるということこそ仏教的な善の方向でしょう。
異熟
ここのか様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
業(カルマ)の結果に関しては、「異熟」というものとして、過去から現在までの善悪、中性の様々な行いがごちゃ混ぜとなり、やがてそれらが熟しつつに結果が出てくるというような感じとなります。
ですから、ある特定の悪い行いをしたからといっても、すぐにその特定の悪い行いの結果が出るというわけではありません。もちろん、すぐに出る場合もありますが、それも、過去から含めての結果へと向かう業の異熟の因縁(原因と条件)が調っての上のこととなります。
また、「豪遊して良い思いをする」という結果は、まあ、仏教的には良い結果とは考えないところであります。何が仏教的な善い結果で、何が仏教的な悪い結果かは、「悟り・涅槃に近づくのが善、遠ざかるのが悪」という吉武文法様の基準が大切なところとなります。
仏教的な善き結果へ向けて、しっかりと仏道を歩んで参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
吉武 様
ご回答ありがとうございます。
まず始めに北海道のお寺のお坊さんということで、この度の地震で被災されましたこと心よりお見舞い申し上げます。
大変な中ご丁寧にご回答頂き重ねて感謝いたします。
因果応報について、ご指摘通り世俗との善悪を混同しておりました。
子どもに因果応報について説明していたところ、何々ちゃんはいつもズルをしてるのに得をしてるのは何で?と聞かれて回答に困りました。この場合の得というをお釈迦様の徳と混同していると話になりませんものね。
ありがとうございました。
川口 様
ご丁寧なご回答ありがとうございます。
異熟と言う過程を詳しく教えて頂きありがとうございます。
原因と結果と一口に行ってもそれらの要素は複雑に絡み合っているのですね。
仏教における善悪は悟り・涅槃に近づくのが善、遠ざかるのが悪。
と言うこの言葉につきますね。
私たち世俗の者が普段ツイてるなぁ、
と思うことのほとんどは仏教的にはツイてないのかもしれませんね。
私は常に感情に振り回されてるような生き方ですから涅槃に遠ざかる行いとしてどれほどの悪業を積んできたことでしょうか。
苦しいですね。
ただこんな私でも仏教に触れる機会があることに感謝し、もしかしたら過去の徳のお陰と思って日々精進したいものです。
ありがとうございました。