輪廻の主体
輪廻転生の事を考えると胸が痛くなります。何故仏教は命を一回限りとしないのでしょうか。
もちろん今ある生も今生限りのものですから人生が一回限りであることには変わりありません。
ただ殉教、殉死、心中等を遂げた歴史上の偉人の前世や来世が全く下らない物だったかもしれないと思うと胸が張り裂けそうになります。
自分の運命や人生を全面的に肯定して死に切ったとしても、過去世や来世の全く違う人生によって矛盾をきたしたものになるとしたらどうでしょうか。
「七度生まれ変わって朝敵どもを皆殺にしたい」と言って自決した楠木正成が果たして貧民街の子供に生まれ変わる事は無いと誰が言えましょう。
彼は生まれ変わりを願いましたが、あくまで自分の人生を貫き通す意思であり、運命愛に過ぎません。
生涯不犯を誓って異国で命を落とした宣教師達の前世がどこかの売春婦であると考えただけで吐きそうになります。
もしそれで良いのならこの世での清貧、忠義や誠意も全く無意味なものとなりますから。
ただ輪廻思想が広大無辺な仏教の歴史の中で偉大な説法者達に受け継がれてきたものである事は否定できませんし、
私は至らぬ凡夫ゆえ仏教の各宗派の前提とする輪廻の教義まで仔細には存じ上げません。
仏教では、特に自性を認めない中観派では何が輪廻するとされているのでしょうか?
水車を廻す水や携帯を動かす電気のように、「私」ではない、「私」の生み出す執着そのものが輪廻するのでしょうか?
執着が輪廻するのであれば悟りを得た=執着を滅した釈迦が解脱に入られたと解釈できるように思えますが。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
冤罪です
仏教は輪廻を今生限りで終わらせることを目的としています。つまり解脱です。六道輪廻はお釈迦さま以前からあったバラモン教の思想であり、仏教はそのアンチテーゼです。
たしかに仏教も輪廻は説きます。しかし仏教で輪廻を説く場合、
①世俗向けの「輪廻」と出家者向けの『輪廻』を矛盾しない範囲でダブルスタンダードしている。
②『諸法無我』が大前提。
③前生譚は基本的に純粋な仏教ではなく、仏教から派生しつつ他宗教と融合した比喩や文学。日本で言うと日本昔話や杜子春は仏教か否かというレベル。
の3点に要注意です。
要点だけまとめますと
①
イ、世俗向けには「善い生きざまをしなさい。さすれば来世で楽を得るでしょう。」
ロ、出家向きには「来世?変なこと考えていないで修行しなさい!」
ハ、「善い生きざま」=「修行」が共通項
二、この延長線上が密教の世俗諦と勝義諦(たぶん。他宗派でまだ裏が取れていませんが)。
②
ホ、無我とは個と全の境界線を取り払って殺活自在になること。
ト、中央集権の鎌倉幕府が生き残りをかけて内紛しまくって潰れた→室町幕府が「小さい政府」ならぬ「小さい将軍」にし過ぎて外戚や側近が力を付けすぎて潰れた→江戸幕府は対立構図を「こっち見んな!」と上手く誘導したが、海外からの外敵に一致団結できずに潰れた→大日本帝国が欧州式の「右に倣え」をしたが…というような、現象と精神性(霊的な意味ではない)が延々と続いていくのが無我を前提とした輪廻。
チ、輪廻というワードを使っても使わなくても、とにかく「善い生きざま」=「修行」をしなさいがポイント。
※お釈迦さまは「識が輪廻する」という弟子の言葉を否定しています。「執着が輪廻する」も退けられるでしょう。
リ、密教→ゴータマ・ブッダ(「輪廻」の否定)より大日如来(法身)をクローズアップ。六道よりも曼荼羅という段階。
禅宗→日常生活の中で「善い生きざま」=「修行」しましょう。六道は心の状態の暗喩。輪廻は無我を前提。
浄土→来世で打ち止めの「輪廻」に言及しつつ、本質的には「阿弥陀さまのお陰様」という全の『輪廻』に導く。極楽浄土を前面に出すほど六道は有耶無耶に。
『輪廻』のワードを使うも使わないも対機説法ですが、現代日本人の認識と習慣では「輪廻」という発想そのものから解脱し、問題化しないのが適と考えています
モークシャーカラグプタ大師「論理のことば」
akbcde様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
輪廻の主体ももちろん、空にして縁起なるものではあります。
何が輪廻するのかとなりましたら、微細な意識の連続体、心相続というものとなります。
しかし、その微細な意識というものを理解するためには、顕密共にかなり深い瞑想修行を要するところとなります。
輪廻の論証は、「結果としての能証に基づく推論」として、
「心というものはすべて、次の瞬間の心と結びつくものである、たとえば現在の心のように。(必然性)」
「死ぬときの心も、心にかわりはない。(所属性)」
「だから、死ぬときの心は、次の瞬間、すなわち、次生のはじめの心と結びつく。(結論)」
更には、
「(各瞬間の)心は、もう一つの、それに先だつ(瞬間の)心から生じる。たとえば、現在の瞬間の心がそうであるように。(必然性)」
「誕生の瞬間における心も、心にかわりはない。(所属性)」
「ゆえに、誕生の瞬間の心は前生の心より生じる。(結論)」
というものが有名なものとしてあります。
瞑想や上記の推論以外に、証明できるものは無いのかとなりましたら、もしかするともう少しすれば、素粒子物理学と宇宙物理学で証明が可能になるかもしれません。
私たちが普通に知覚できる次元は、時空の4次元ですが、すでにこの世界(物質・宇宙)は、10次元以上であることが数式上においては明らかになりつつあります。超ひも理論、膜理論というものです。その先に意識というものの存在の真実性もいずれ明らかにされるのではないだろうかと期待していますものの、深い瞑想以外においての実証はなかなか容易ではないとも思われます。
是非、禅定修行にも取り組んで頂けましたらと存じます。
とにかく、中観帰謬論証と共に、ダルマキールティ大師の論理学も学ばれますことをお勧め申し上げたいと存じます。
そのための参考としては、モークシャーカラグプタ大師の「論理のことば(タルカバーシャー)」(梶山雄一先生訳註)中公文庫の読解がお勧めであります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
回答して下さった皆様に感謝致します。
少しばかり気が楽になりました。
ただただ拒否するだけでは無く、これからも学ばせて頂く事で無知に依る不安を無くしていきたいと思います。