hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

障害者について

回答数回答 3
有り難し有り難し 67

こんにちは。
不届きな質問なのこもそれません。
自分で何度考えても、1人の考えで答えはでず、どうしたら良いのかとなやんでいます。
知的障害者の方が近くに住んでいます。その方は、重度だと判定されます。
近所では問題行動が多く、皆困っております。
障害者差別をするつもりはありません。
私自身、障害者です。他の方よりは幾分か知識もあるつもりです、つもりですが、、
お聞きしたいことは、何故、知的障害者は罪に問われないかということです。
物を壊しても、猥褻なことをしても、一般的にそれをすれば警察に捕まるだろうと言われている事をしても不起訴、責任能力がない、支払い義務がないとなります。
彼らは、何をしても許されるんです。
何をしても許される人物が野放しになっていて良いのか?悩みます。
知的ではない障害者の方で仮に事件を起こしたとします。同じように責任能力がないと判決されても、その後重大に監視されるか、病院に入る等なにか処置が必ずされます。
しかし、知的障害者にはそのような事が一切ないのです。
知的障害者のことを言うと、すぐに差別だと騒ぎ出す方々がいます。
差別?彼らが罪を犯し、訴えられることが差別なのでしょうか?
彼らも人間です、同じように人権があります。そのように言われています。
人権があるのなら、それに伴う責任もあるのではないか、そう思います。
このように考えている時点で私はダメな人間なのかもしれません。
それでも、目の前で知的障害者によって被害を受けている人がいる、でも、何もしてあげることも出来ず、泣き寝入りすることしか出来ない、それが果たして良いことなのか?
ずっと自問自答しております。
わたしは、知的障害者にもきちんとした罰則を制定してほしいと思っております。
それは、差別なのでしょうか、、、?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それは仏教ではなく、司法や立法の問題です

質問読ませていただきました。

ご質問された、「何故、知的障害者は罪に問われないか」という問題ですが、それは仏教では解決できません。

なぜなら、仏教で決められた事ではなく、国が決めた方針だからです。
ある日、国会で「知的障害者も健常者と同様に罪に問う」という法律が制定され、司法がそれに基づいて判決を下すなら、知的障害者も罪に問われるでしょう。

それに対して、仏教ではいいとも悪いとも、答えを持ちません。

ですので、どうしても疑問に思うのであれば、弁護士の方などに、その立法趣旨などを尋ねてみてはいかがでしょうか?

{{count}}
有り難し
おきもち

京都府・大阪府・奈良県の県境に当たる、京都府京田辺市の天王院というお寺でお...
このお坊さんを応援する

難しい問題です。

差別とは辞書的には

「あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別し、取り扱いに優遇や冷遇の差をつけること。特に、冷遇の面、つまり正当な理由なく不利益を生じさせる行為に注目する。」

といった意味になるようです。

よって、知的障害者という理由のみで刑事罰に区別が生じ、厳罰になるなら差別、罰が軽くなるなら逆差別ということになるのかもしれません。私はその分野について明るくないですが現在の日本の法律では「知的障害者という理由のみ」での判断ではなく、その事件当時の責任能力の有無について個別・具体的に判定しているようです。(下記を参照しました。)

知的障害者の刑事責任能力判断に関する近時の判例の動向
https://www.chukyo-u.ac.jp/educate/law-school/chukyolawyer/data/vol017/ogata.pdf

そして、あなたの

>知的障害者にもきちんとした罰則を制定してほしい

は個人的には差別には当たらないかと思います。「知的障害者であること」を理由とせず、責任能力の有無をきちんと判定して罰則に処することは法の下の平等として必要であり、現在の立法の精神・判例もその主旨に基づいてなされているのではないでしょうか。

しかし現実の生活においては刑事事件に至らないものなどのトラブルも絶えないのではないかと思います。実際にあなたや周りの人もそれによって様々な不安や不満を抱えておられるのでしょう。
ではどうするかといえばやはり川口師のおっしゃる様に「地域の皆さまとの話し合い」が重要なのでしょう。地域の皆様が不安を抱えているのはもちろんですが、その知的障害者の方の面倒を見ている保護者や監督者等の方はより不安やストレスを抱え込む状況に追い詰められていることも多々あるのかと思います。肩身の狭い思いをし、周りを頼れず結果として事件に至ってしまうケースもあるのかもしれません。

それでもやはり我が身の都合しか考えない人間にとって「話し合い」は難しいものです。仏教がアプローチするのはそこかもしれません。
もちろん仏教以外に社会における啓発や法整備など様々なことがら求められるでしょう。

そしてあなたがあなたの考えによって苦しい思いをしているのなら、そこにも仏教は寄り添うものです。
自分を責めないでくださいね。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

地域の皆さまとの話し合いから

すずめ様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

私たちは縁次第で成り立っているものであり、このことを「縁起」と申します。

より詳しくには、因縁(原因と条件)次第というところとなります。

その因縁次第では、自分も、彼ら(彼女たち)と同じような境遇となり得るところとなります。

もちろん、それは誰にだって言えるところなのであります。それもほんの少しの縁次第でそのようになり得るのであります。

拙生は、ハンデのある皆様を見かけた時、あるいは関わりがある時には、私の苦しみ、皆の苦しみを引き受けてくれているのだ、背負ってくれているのだと考えて、その苦しみが少しでも和らぎますようにとして、できることをと思っております。

助け合い、支え合い、分かち合いが必要なこの世界の中で、どのように共生を目指していくかは、人それぞれの考え、関係、また、社会、地域のありようも問われてくるところとなります。

周りの人たちと共に、どのようにしてその方を助けて、支えていくべきか、問題を解決してゆくべきか、一人で考えずに、地域の皆さまとも共に話し合いをされてゆかれますことをお勧め申し上げたくに存じます。

川口英俊 合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

Eishun Kawaguchi
最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

お言葉ありがとうございます。
カテゴリー違いでしたね、、
お時間をとらせてしまい大変申し訳ありませんでした。
法律が制定されても、司法、警察は助けてはくれない。
それが今の実情なんです、、
自分は、法制度、体質に対して疑問を持っております。
ただ自分は、今の考え方に対して何か変化を与えてもられるのではないかとそう思い投稿したのかもしれません。
愚問に対し、お答え頂き、ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ