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行動力?勇気?

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有り難し有り難し 25

人生の中で一度は死にたいと考えることがあると思います。

思うだけだったり、口に出すこともあるなかで、実際に行動に移してしまうのは、どの様な思いの違いがあるのでしょうか?
死ぬことも勇気なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思い歩きをつつしむ

人間は瞬間瞬間の存在です。
一秒一秒、同じ体制でいても内臓は動いていますから、一秒一秒違う存在でもあります。
さっきまで考えていたことでも、それを今振り返るという形で考えている時は別物なのです。
人間はいつもつも、毎秒毎秒、別々のあり方をして生きているという事です。
ですから、同じことを思うにしてもほぼ同じように思えていても本当は違うことを思っている状態なのです。
今、目線をこちらの画面ではなく、半径数メートルを見回してみましょう。
さっきまでそこにあったものでも、その存在は忘れ去られていました。
今のあなたの呼吸もそうです。
自分が息をしていたという事は無かったはずです。
自分が自分の意思でこの身心のやることを何とかしようという意志が強くなると、人間は心が重たくなってきてしまいます。
あなたはあなた自身をもっといたわって、あなた自身の本心やあなた自身の体の感覚をもっとやさしく大切にしてあげてみてはいかがでしょうか。
心が外に向かうと人間は、この自身すら悪い意味で忘れ去られてしまう。
アタマの活動はものすごい速さであれこれと動き回ります。
ですが、本当にとどまるべきところがあるとすれば、まず「そこに居る」ということなのです。
何を観るにしても心を他に向かわせないこと。
何かを見て「ああ、またあれか。」とか「どうせ、つまらないもの。」「それ、知ってる。」とか思い起こしてしまう人は、今出会っていることを相手にしていないのです。
アタマの中で思い起こされた副産物の方をメインであると誤解している心理にあるのです。
本当は今、見えていること、聞こえていること。感じていること。触れていること。
ここに居ることに心が優しく備わらなければ、こころがいつも浮ついた状態で、人の話を聞くにもみるにも「すぐ旅立ってしまう」のです。
自分に本当の意味で優しい人は、どこにあっても、こころがちゃんとそこに備わっている人です。こころをその場から旅立たせないように生きてみてください。
心って、こころだけが現実逃避、現実離れしてしまうものなのです。
地に足着かない生き方、地に足着かない心。
心をどっしりとそこに座らせてみましょう。
「坐る」とは座ることではなく、心が何もしないことです。
見えるものをみえたままに、裏読みも深読みもせず、別の添え物をしない。
そういう心で生きてみてください。

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有り難し
おきもち

死ぬ気力さえもない場合も

自殺者の9割は「うつ」だと言う話もあります。
「うつ」がどん底のときは、自殺する気力さえもない、ちょっとだけ元気になったときが危ない、なんていう人もいますね。
女性よりも男性の方が自殺を決行しやすいとも、聞いたことがあります。
「勇気」という言葉は、実体のない概念・観念にすぎません。
自殺するのも「勇気だ」と呼ぶ人もいるかもしれません。
ただの言葉上の問題なので、仏教的にはどちらでも良い(それも勇気と呼びたければ勝手に呼べば?)のです。

仏教を学ぶと、死にたいほどの悩みはほとんど無くなると思います。
死ぬ勇気とか言う以前に、生きるのが下手(心の管理方法を知らない)だから死にたくなるのではないでしょうか。
だったら、生きるのが上手くなればよい。
仏教を学ぶと、生きるのが上手くなります。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

お返事いただきありがとうございます。
最近はよく「自殺」とか「死」と言う文字を見たり聞いたりすることが、多いように感じます。

「心がなにもしない」ことは簡単そうでも難しいものですね。裏読みも深読みも思い当たります。心はここにある『つもり』でした。
「生きるのが下手」と言うお言葉にドキッといたしました。本当にその通りです。

自殺などのニュースを観ると、生きる方法もあったんじゃないかと悲しく思うのですが、行動できて凄いという感情もうまれます。自分だったら直前で怖くて足がすくみ止めてしまうんじゃないかと思いますし、その恐怖に勝ったのだから実は強い人なんじゃないかと……
錯覚ですよね。

「死について」問答一覧

死別シングルマザー

夫と死別し、半年経ちました。 死後の手続きなどでバタバタと、忙しくしていましたが、この頃PTSDの症状がでて、とうとう仕事にいくこともできなくなりました。 一ヶ月の休職ですが、休んでる間に収入の不安、子どもたちのこと…色々と考え過ぎてよけいに具合が悪くなっている気がします。 職場からは、また笑顔で戻ってくることを待ってますと温かい言葉を掛けてもらっているのですが、夫を看取った病院が職場の直ぐ側であることや、救急車が頻繁に通ることなどから、正直一ヶ月休んだところで復帰する元気があるかわかりません。何も前に進めない自分に自己嫌悪の毎日です。お金の不安と、パートナーを失くしたことから『風俗』で働いて少しでもお金を…と浅はかな考えも拭えません。時間が長く感じます。こんな姿を夫が見たらなんて思うだろう。夫じゃなくて、不器用な私が先に亡くなればよかったのにとまで考え込んでしまいます。周りには自分のように30代で配偶者を亡くした人はおらず、まるで腫れ物のように感じます。他の家庭を見ると、赤ちゃんが生まれた…家を建てる…夫婦仲良く子育てできてて自分にないものばかり目に映り、生きづらいです。

有り難し有り難し 6
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「周りの人間の死」への向き合い方

「周りの人間の死」への向き合い方が分からず、恐らく変な方向に価値観が向かってしまい、常に一定の苦しみを抱えてしまっています。 無理やり挙げるとすれば、恐らく一番大きなきっかけは、2年前に母の母である祖母が急死されたことだと思います。大きな病気やケガもなく元気に畑で過ごしていた祖母の急死に頭が追い付かず、又様々な状況を理由にしばらく会えなかったことや、恩返しなども出来なかったと感じたことによる後悔と主に、「人は急に死ぬこともある」といった至極当然のことに恐怖を覚える様になりました。 その"急死"は脳内で"事故死"等に変換されたようで、現在は「自分が何か人に頼むことで事故死するかも」といった恐怖をもってしまっています。私が親に頼んだ買い物の道中で死ぬかも、私が選んだ待合場所のせいで、指定した時間のせいで友人が死ぬかも、と思うと、所謂"普通の価値観"で人に頼る事、あまつさえ意見や提案事の提示も難しくなってしまいました。 正直自分の死は大して怖くはありません。ただ、もしそういった状況で知人が亡くなってしまえば、仮に明らかに自分のせいではなくとも「自分がこの人を殺した」と思ってしまうに違いないと感じています。又そういった気持ちを抱えてその後の人生を全うできるとは到底思えません。 バタフライエフェクトのレベルで「人の死に関与したくない」といった気持ちが大きくなってしまい、生き苦しさを感じてしまっています。 この価値観が、俗にいう「変・ずれている・間違っている・過剰」ということは頭では理解できているつもりです。ただ、どうにも心がこういった考えを除いてくれません。 もし仏教などを用いて少しでも楽に生きることが出来るのであれば、と思い、相談させていただいている次第であります。ご意見をお伺いできますと幸いです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 2
回答数回答 1

病気になって死を考えるようになった

現在,一人暮らしをしている中年男性です。 先日から病気をしています。病気になって,一人暮らしなので,闘病しながら食事,洗濯の家事をしないといけません。また,食事のための買い出しも必要で,誰か助けてくれないかと,常に考えています。 知り合いに食事を作って持ってきてください,といった厚かましいお願いはできないもので,そういったお願いができる知り合いがいるわけではありません。 闘病を続けながら,食欲もなく,痩せていくし,気力も失ってきています。 また,コロナ禍で,一人亡くなっていった方もこのようなつらい状況であっただろうと想像し,そのため可能であれば入院させていただいて,看病していただけないかと,勝手な思いが巡ります。 そして,こんなに苦しい状況なのに,これを乗り越えて「生きる理由」はあるのだろうかという考えが頭をよぎっています。 ある程度の人生は送ってきました。これから先もいろいろと楽しみもあると思いますが,生老病死は,四苦なので,病気を克服するのも,その後,克服した後に生きていくのも苦しいのだろうと,勝手に解釈をしたりします。 だったら,もうここでいいや,と思ったときは,死ぬことができたらいいなぁ,眠るときにこのまま目覚めなければいいな,と考えるようになっています。 自死については,以前は否定的ではありましたが,闘病の中で,それは個人個人の自由でいいのではないかと思うようになりました。 自死していった方は,苦しい中,生きることに耐えられなかったのだろうなと,共感できる心持になっています。 病気をして,手厚く看病してくれる人がいる状況であれば,それはそれで,心配してくれる人のために生きる理由があっていいのですが,そうでない私は,一人で非常に苦しい,不安です。そんな私が,命尽きるまで闘病するかもしれないという選択をして,生きる理由はなんでしょうか。 誰も助けてくれる人もいない,ただ病気と闘って,死を待つだけかもしれない。 最後は,一人,孤独死を迎えるのかもしれないと思うと,寂しく,不安です。 そういった中で,このサイトに行き当たりました。 取り留めない文章になりました。 回答をいただければ幸いです。

有り難し有り難し 13
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死んではいけない理由を教えてください

駄文につき失礼致します。 私は大学生です。 様々なストレスが重なりうつ病を発症しました。目下治療中です。 薬を飲み始めてからは落ち着きましたが、昔は希死念慮がよくありました。漠然と死んでしまいたいと思うことがよくありました。 投薬による治療や、様々な死生観等に関する書籍を読むうちに次のような価値観が形成されました。 死んでしまっては選択肢がなくなる。 生きているうちは選択肢が無数にある。 生きる事に行き詰まって選択肢がなくなってしまったと思ったら、死ぬことを考えよう。 これは今私が生きている理由の一つですが、この考えは一見生きることに前向きなようで死ぬことを否定していないのです。 言い換えれば、いつでも死ねると言う風にも捉えられます。 私は今のところ死ぬことは勿体無いと考え自殺を踏みとどまっていますが、自殺を否定する理由は未だに見つけられていません。 生きている限りいつかは死が訪れるものであり、やがては受け入れなくてはいけないものだと考えていますが、自ら死に近づく行為はいけない事なのでしょうか? 確かに、人が皆自殺を礼讃するようになれば人間社会は成り立たなくなってしまいます。 しかしながら生きることが権利ならば死ぬこともまた同様なのではないかとも考えてしまいます。 どなたかお力添え頂ければ幸いです。

有り難し有り難し 14
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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ