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行動力?勇気?

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有り難し有り難し 26

人生の中で一度は死にたいと考えることがあると思います。

思うだけだったり、口に出すこともあるなかで、実際に行動に移してしまうのは、どの様な思いの違いがあるのでしょうか?
死ぬことも勇気なのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

思い歩きをつつしむ

人間は瞬間瞬間の存在です。
一秒一秒、同じ体制でいても内臓は動いていますから、一秒一秒違う存在でもあります。
さっきまで考えていたことでも、それを今振り返るという形で考えている時は別物なのです。
人間はいつもつも、毎秒毎秒、別々のあり方をして生きているという事です。
ですから、同じことを思うにしてもほぼ同じように思えていても本当は違うことを思っている状態なのです。
今、目線をこちらの画面ではなく、半径数メートルを見回してみましょう。
さっきまでそこにあったものでも、その存在は忘れ去られていました。
今のあなたの呼吸もそうです。
自分が息をしていたという事は無かったはずです。
自分が自分の意思でこの身心のやることを何とかしようという意志が強くなると、人間は心が重たくなってきてしまいます。
あなたはあなた自身をもっといたわって、あなた自身の本心やあなた自身の体の感覚をもっとやさしく大切にしてあげてみてはいかがでしょうか。
心が外に向かうと人間は、この自身すら悪い意味で忘れ去られてしまう。
アタマの活動はものすごい速さであれこれと動き回ります。
ですが、本当にとどまるべきところがあるとすれば、まず「そこに居る」ということなのです。
何を観るにしても心を他に向かわせないこと。
何かを見て「ああ、またあれか。」とか「どうせ、つまらないもの。」「それ、知ってる。」とか思い起こしてしまう人は、今出会っていることを相手にしていないのです。
アタマの中で思い起こされた副産物の方をメインであると誤解している心理にあるのです。
本当は今、見えていること、聞こえていること。感じていること。触れていること。
ここに居ることに心が優しく備わらなければ、こころがいつも浮ついた状態で、人の話を聞くにもみるにも「すぐ旅立ってしまう」のです。
自分に本当の意味で優しい人は、どこにあっても、こころがちゃんとそこに備わっている人です。こころをその場から旅立たせないように生きてみてください。
心って、こころだけが現実逃避、現実離れしてしまうものなのです。
地に足着かない生き方、地に足着かない心。
心をどっしりとそこに座らせてみましょう。
「坐る」とは座ることではなく、心が何もしないことです。
見えるものをみえたままに、裏読みも深読みもせず、別の添え物をしない。
そういう心で生きてみてください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

死ぬ気力さえもない場合も

自殺者の9割は「うつ」だと言う話もあります。
「うつ」がどん底のときは、自殺する気力さえもない、ちょっとだけ元気になったときが危ない、なんていう人もいますね。
女性よりも男性の方が自殺を決行しやすいとも、聞いたことがあります。
「勇気」という言葉は、実体のない概念・観念にすぎません。
自殺するのも「勇気だ」と呼ぶ人もいるかもしれません。
ただの言葉上の問題なので、仏教的にはどちらでも良い(それも勇気と呼びたければ勝手に呼べば?)のです。

仏教を学ぶと、死にたいほどの悩みはほとんど無くなると思います。
死ぬ勇気とか言う以前に、生きるのが下手(心の管理方法を知らない)だから死にたくなるのではないでしょうか。
だったら、生きるのが上手くなればよい。
仏教を学ぶと、生きるのが上手くなります。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

お返事いただきありがとうございます。
最近はよく「自殺」とか「死」と言う文字を見たり聞いたりすることが、多いように感じます。

「心がなにもしない」ことは簡単そうでも難しいものですね。裏読みも深読みも思い当たります。心はここにある『つもり』でした。
「生きるのが下手」と言うお言葉にドキッといたしました。本当にその通りです。

自殺などのニュースを観ると、生きる方法もあったんじゃないかと悲しく思うのですが、行動できて凄いという感情もうまれます。自分だったら直前で怖くて足がすくみ止めてしまうんじゃないかと思いますし、その恐怖に勝ったのだから実は強い人なんじゃないかと……
錯覚ですよね。

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