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知れば知るほど世界が憎くなる

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有り難し有り難し 12

最近になって生命の生き足掻きを意識出来るようになってきて、知らない・分からない事で余りに多くの人が苦しみ、本人が知らないという自覚すらなく、知らずに道を踏み外す事を感じる様になりました
それにより個々の他者に対する憎悪や怒り随分減りました

代わりに生まれたのは世界の形その物への強烈な憎悪です
人や命が愚かに生まれ道を容易に踏み外す性質を持つ事への憎悪です
生命がある意味完璧に生まれない事への憎悪、悟って生まれない事への憎悪です
いっそ人と命が消えた方が幸せなのではないかと感じます
この憎しみが何か誤って居るだろう事は感じるのですが(今の生命を滅ぼしてもまた生まれるのもそうですし、愚かさもまた生まれ続けるでしょう)、何をどうすればよいかが全く分かりません

衆生の愚かさや苦しみに心穏やかに生きれる人はこれについてどの様に見ているのでしょうか?
ただただ正しさを求める気持ちが強迫観念であり真実は己が空虚である事の表れなのでしょうか?
どの様に見て何をすればよいでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたは「潔癖」な方のようですね・・・。

〈衆生の愚かさや苦しみ〉とおっしゃっている所をみると、仏教に関しても学んでおられるようで・・・。
お釈迦様の❝弓矢の喩え❞については、ご存じでしょうか・・・?。弓の弦が張り過ぎていると切れてしまいます。逆に、緩んでいると矢は飛びません。そう、バランスの取れた「ほどほど」の強さが、弓矢としての正しい機能(はたらき)を発揮するのです。
〈個々の他者に対する憎悪や怒り随分減りました。代わりに生まれたのは世界の形その物への強烈な憎悪です 〉とのコメントに、多少、他人に対する寛容さ(ゆるみ)が出ては来たのですが、別の方向(社会)への怒り・不満(緊張)が湧いて来たようですね・・・。つまり、再び弓の弦が「張り過ぎ」てきたのでしょう・・・。しかし、それはあなたの「正義感(潔癖性)」から出てきているように思います。
世の中は「理想的」には行かないのです。それに対して、身近なものから一つ一つ「正しい」方向に向くよう、働きかけていきましょう。但し、自分は「絶対正しい」と思いこまないように・・・。「自分は正しい」と思っていても、他人や社会は「正しい」としない場合もあるのだ、という「寛容さ」も必要です・・・。それが❝中道❞ということかも・・・。
こんな格言があります。「賢者は愚者からでも学ぶが、愚者は賢者からさえ学ばない」・・・よく味わって下さい。合掌

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

>>大塚 芳明 様
回答ありがとうございます
長文が過ぎて投稿が上手く出来ずに一度失敗したので、簡略に…
弓矢の話を聞き、寛容についての話を聞いて思ったのは、私のは仏教的に他者に対しても「寛容さ」に属する物ではないかもしれないと思いました
私のそれは「執着がない」事に由来する物ではなく「この人たちの今いる場所が今まではこの人たちが本人たちの知る限り最善の選択をして来た結果なんだ」と言う事と「私も縁が違えば同様の場にいた」と言う理解による物です
なので言ってしまえば恐らく「親近感と同情」に由来する物です
そう言った知見を「無駄な物」「愚かしい物」「誤った物」とされるかは別として、弓矢の弦の話を聞いて思ったのは、
「どうせなら」と言うような精神です
世界はこうあって生命はこうある、だから「こうあらねばならない」「ここを目指さねばならない」「こうでないのは欠陥である」ではなく、
「どうせならこうだと良い」「どうせならこうしてみると良い」と言う「こだわりの無さ」が「寛容」なのかな?と感じました
目を閉じて(悟りを開かず)に歩いて転んであちこちぶつけている人に「こんにちは、どうせなら目を開けて歩いてはどうですか?」と言って「目を開きたくない目を開くのが怖い、きっと目がつぶれてしまう」と言われたら「そうですか、目がつぶれるのが恐ろしいから目を開きたくないのですね。では私の言う事は今はもうありません。どうかお気を付けて歩いてくださいね。あまり怪我をしない事を祈っていますよ」と言うのが仏陀が教え、推奨した生き方なのかな?と思いました(まぁ、このくらいの内容ならもうちょっと踏み込むかもしれませんが)
正義感も神経症の一つに過ぎないのかもしれませんね(統制という防衛機制)
積極的、かつ過度に「放埓」に走るのも「躁的防衛」とか「行動化」で心理的防衛機制なんでしょうが…
「防衛機制や役割の縛り」を排除して「自由な個」に立ち返る教えなのかもしれませんね

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