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この言葉は社交辞令でしょうか?

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男性と二人で食事に行った後、少しその男性の事が気になり、私発信で何回か男性にメールを送り他愛もない事を話したりしました。
この前、私から「最近寒いですが…体調崩してないですか?」とメールを送ると、男性から「仕事で怪我をした」と写真付きのメールが送られて来たので心配になり、大丈夫ですか?と気にかけるメールを送った後に、付き合ってもないのに“体調崩してないですか?”と聞くのは重たかったかな?と思う様になりました。
いつも、メールは私発信で、メールのやり取りも3往復ぐらいで終わります。
その後のメールのやり取りで男性から「また、機会があれば会いましょうね♪」と送られて来ましたが、この言葉は…社交辞令でしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

社交辞令から始まる恋もある

LINEやフェイスブックでもメールでもただ挨拶だけの関係の人がいます。
ですが、挨拶プラスα、で関係の距離は縮むものです。
もう一言、推しが大切です。
観音様は、沢山の手に沢山の物を持っています。
ちょっと検索してみてください。
相手に応じて、渇く人には水を、寒い人には火を、病の人には薬を。
人間関係はまさにここではないでしょうか。
私は、最近のインターネットの関係を通じて多くの人たちと現実でお会いする機会に恵まれました。
それは、お互いの社交辞令に一歩、二歩と踏み込んだからだと思っております。
どうせ社交辞令だから、と距離を置いているとそれ以上の関係になることは無いと思います。
是非、今晩お食事いかがですか?
もし、急で駄目でしたら、何時がよろしいでしょうか?
恋人になったつもりでメールアタックしてみましょう。その後の変化をお聞かせください。
どう転んでも、このサイトには各分野でのアドバイザーがいますので、ご安心ください。

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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