他宗教
この世に我こそは『真理』と言う宗教があふれているのはどうしてですか?
また、偽物と本物はどこを見れば区別つきますか?
人間に絶対的真理なんて見分けられるのですか?
こんにちは。 よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ツール
そもそも宗教なるものは、
人間がより善く生きていくためのひとつの<ツール>だと考えます。
一人ひとりが各々の善意と良心に基づいて、思いやりのある行動を貴べるようになれば、ぶっちゃけた話、ツールはどれでもいいのかもしれませんね。
かつてダライ・ラマ法王が来日された折に、
「仏教が最高だとはかぎらない。例えばキリスト教徒は、神のミッションを遂行せんとする中で【博愛】の精神を育む。仏教徒は【縁起と空】を体得していく中で【慈悲】の心を育む。肝心なのは【思いやり】の心を育てる事だ」との旨、仰せになられたのには、私は深く感銘を受けました。
”偽物と本物はどこを見れば区別つきますか? ”
「正」といふは、傍に対し、邪に対し、雑に対することばなり。『正信偈大意』
単なる知識教養、私利私欲、コレクションのひとつ程度なら、どんな宗教を信仰しても本物を掴んだとはいえないかもしれませんね。
”人間に絶対的真理なんて見分けられるのですか?”
たぶん、見分けられるんだと思います。
かつて釈尊は、悟った内容はどうせ誰にも理解できないだろうと考え、人々に語るのを一旦ためらったそうですが、やはり「今、我、甘露の門をひらく。耳あるものは聞け。」と、布教に立ち上がる事を決めたそうです。「耳あるもの」つまり、あなたのおっしゃる絶対的真理を見分けられる人はいるという事ではないでしょうか。
自分は見分けられると思っている人が荒らす
そんなに真理というワード、溢れていますでしょうか?私は回答僧より質問者さん方のほうがよく使っているように感じます。ぶっちゃけ宗教に限らず、どこでもいわゆるニワカの人が一番荒らしていますよ。
さて、本堂で鐘をゴーンと鳴らします。ゴーンオンオンオンオンオンオン…と響きます。多くの人はこの音を聴いて「とても良い音ですね」と言って下さいます。でも、必ずケチをつけるタイプの人達がいます。西洋音楽を『かじった』人達です。その人達は口を揃えてこう言います。「こんな風にオンオンオンって色んな音が出る(音域に幅がある)のはキレイな音じゃないって習いました。混じりっけなく1つだけ音が出るのが良い音なんです。」
でも、あのような高音から低音まで一緒に出てくるような音は、川のせせらぎや焚き火の音のようにリラックス効果があるそうです。他の音をかき消す効果があり、聴覚から脳へ伝える情報を減らし、脳が休まりリラックス出来ると。もっと宗教チックに言えば瞑想効果があるわけです。だから言いますよね、シンキングボウルと。
だからお寺の鐘の音を何も考えず自然に聴いている人は脳が心地よいと感じ、「良い音ですね」と思えるわけです。逆に西洋音楽を中途半端にかじって他人の採点基準で評価している人は、理屈で感性を潰して音の持ち味が分からなくなっているわけです。
なぜ除夜の鐘が煩悩を消すと言われるのか?理屈で考える人は音の持つ真理から遠ざかります。思考・哲学・分析・評価の類いは煩悩です。十二縁起では「取」と言います。比較して評価して上げたり下げたりするから争いになるんです。
小魚の中にカルシウムが入っているかどうか証明しようがすまいが、小魚食えばカルシウムは摂取できます。真理とはそういうものです。頭が見分けるのではなく、眼耳鼻舌身が勝手にキャッチしてくれます。自分で見分けて掴み取るのではなく、自分をお任せしてしまうんです。だから真理なんてワードで強調して意識しない方がいいんです。本当はリラックス効果が有るとも言わない方がいい。ただ眼と耳で感じたまんま。そこになんの意味も上書きしない。それが一番、真理を真理のまま頂く方法です。
ただ、やればやるほど人様にご迷惑をお掛けしてしまう破壊的カルトというものは有りますけどね。家族親族や地域、職場の人々との繋がりが不純になっているなと感じたら厳に要注意です。
「自灯明」
めんぼう様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
転落院様と同様に、ダライ・ラマ法王様はよくご法話にて、教えの受け入れに関しましては、
「師の教えを、ただ尊敬だけをもって受け入れるべきではなく、金細工師が、その扱っている金が本物か偽物か、その金を焼いて、切って、磨くことをもって慎重に吟味するように、そのようにして師の教えも受け入れていくべきである」
とお話をされておられます。
その教え、真理が本当に正しいのか、自分で、しっかりと情報収集と分析、検討、議論、時に客観的に俯瞰・鳥瞰視して鑑みてみること、更には、批判的・合理的な検証も行いつつに、自分で納得、得心することで受け入れていくことが大切であると考えます。
仏教で「自灯明」と申しますのも、そのためでございます。
是非、討議、検証の場としてhasunohaもご利用下さいませ。
川口英俊 合掌
悩み苦しむ人が多く、その悩みや苦しみは多種多様だから、宗教も多くなるのでしょうね。
本物ならそれを信仰している人には悩み苦しみが和らいでいて、自らを律して、他者や他宗教を攻撃することもなく、お互いに助け合い、平穏に暮らしていることでしょう。
真理には2つあります。1つは絶対的な真理です。仏様が教えてくださることですね。これはお経を読んだりお坊さんから聞いたりして知ることができます。
2つは私たちが導き出す真理です。法律や社会のルールなど、私たち人間が社会秩序を保って生きていくためのルールです。私達が長い歴史の中で培ってきた経験から作られたもの、そして、今なお作り続けている発展途上のものです。
もし、あなたが誰かから「これが真理だ」という教えを受けて、それが本当に真理なのかどうかは、1つはお経に書いてあるかどうか、2つは憲法や法律書などに書いてあるかどうかで判断できます。また、どちらにも書いていない真理もあるでしょう。そんな時はお坊さんや法律に詳しい人に相談したらいいと思いますよ。もちろん自ら確かめるということも大切なのですが、くれぐれも危険を伴わない場合に限定してくださいね。
追記
仏様は私たちに真理を教えてくれる存在です。その教えがお経に書いてあるのです。ですからお経に書いてあることは真理に繋がっているのです。もっとも、お経に書いてあることが全て正しいとは限りません。お経の中にはこうも書いてあります。お釈迦様「私が説くことであっても盲目的に信じずに、自らよく考え、実践して、実証して、智者とも話し合い、この教えは確かに正しい、と判断できたら信じなさい。」と。
例えば、戒を守りなさい、というお釈迦様の教えがあります。戒を守ることは苦しみを無くすことができるからです。例えば五戒は、殺してはならない、奪ってはならない、嘘をついてはならない、不倫してはならない、酒を飲んではならない。全て完全には守れませんが、できる範囲で守ってみますと確かに苦しみは軽減されていることが確認できます。ですから私はこの教えは正しいと判断しました。これは真理であると判断しました。お経にはこれ以外にも膨大な量の教えが書いてあります。ひとつひとつ実証していかないといけません。
補足
お経には仏様の教えが書いてありますが、対機説法なので、教える相手によって教えの内容が違うという事を付け加えておきます。
納得できるかどうか
諸行無常、無我、苦などの「真理」に納得できるかどうか。
基本的には、自分で学んでみたり体験してみて、納得できるかどうかではないでしょうか。
また、悩み苦しみの解決に役立つかどうかも重要だと思います。
質問者からのお礼
淨流寺 転落院様
いつも、お答えありがとうございます。
ツールですか。
そんなふうに考えたことありませんでした。
ダライ・ラマ様がそんなふうにおっしゃっても、キリスト教関係の方は自分のところが真理と言ってはばかりません。
よく、うちにも訪問に来るのですが、頭にきます!^^;
西洋は、融通がききませんね・
その分、仏教の方が懐が深いということです。
大変ためになりました。
ありがとうございます。
願誉浄史様
そうですよね。
真理って人の数だけありますよね。
他人が持ってきた真理でも、自分が納得できなければ真理じゃないですもんね。
ありがとうございます。
圓常寺 三宅 聖章様
どうして、仏典に書いてあることが真理だと見分けられますか?
仏教が真理だと、何を持っておっしゃっているのですか?
言わんとする所は分かります。
でも、キリスト教も真理だといいます。
キリスト教と仏教では、矛盾する点が多々あります。
「奇跡」「祈り」「神」など、相容れません。
どうして、仏教が真理だと三宅 聖章様は思われますか?
圓常寺 三宅 聖章様
追記、ありがとうございます!
そうですか。
試してみるということですね。
なるほどです。
真理かどうかそれ以外に見分ける方法はなさそうです。
ありがとうございました。
川口英俊様
お答えありがとうございます。
「自灯明」ですか。
なるほどです。
自分を信じる、自分しか自分を導けない。
深いお言葉です。
ありがとうございます。
大慈様
お答え、ありがとうございます。
言わんとする事、分かりました。
理屈で考えるのは、西洋的ですね。
正直言いますと、最近、カルト宗教がはびこっているので、その反論を聞きたかったのです。
うちにも来ますよ。
で、真理真理といいますので、真理とはどういうものか、お坊さんの考えを聞きたかったのです。
彼女たちは彼女たちで、真理を掴んでいるようでしたので・・・。
お応え、ありがとうございました。