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孤独死

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人は人に認識されて初めて人になるのですか?
誰の記憶にも残らず孤独死した人間は生きていたと言えるのでしょうか


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

多くの人はだれにも認識されなくなる

多くの人は、何百年もたつ中で誰も知らない過去の人になります。そもそも生きている人の記憶に残る必要もありません。親子の関係なら、親の記憶は子に残りますが、孫の代までは残りにくいものです。しかし、その方が生きていたという事実はあったということです。
認識されようが、されまいが人です。

人は生まれる時も死ぬ時も一人です。どんなに仲の良い夫婦であっても別々に死にます。それは不幸なことではありません。孤独死と言っても、その方が、死をどのように捉え、生きていたかによって違うと思います。不幸なことだと決めつけることも違うと思います。
生老病死の苦しみから解脱するということが仏教の大きな目標となります。そうしたことを問題とせず、受け入れられる生き方をしていきたいものです。

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個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

関わりを見つけるためにお寺に一歩足を踏み出そう

そういうことを考えてしまうこと自体、周りとのかかわりがZEROに近い状態になっています。
本当は、黙っていても全てと関わっているんだけど、それじゃピンとコーンでしょうから、まずはウチのお寺なり近所のお寺に行ってみてください。
ウチは毎週日曜坐禅会をやってます。
坐禅は黙りこくるばかりじゃなくて、自分がほっといてもすべての物事と関わり合っていることが見えてくるという側面もあります。
息をしているだけだって周りのものと関わっているのです。
あなたは生きているだけで命がポカポカ暖かいのです。
人間の評価って求めない方がイイと思いますよ。芸能人とか政治家見てください。ほんの一瞬注目されてすぐに消えていくでしょう。そういうのって、華やかに見えても本当は何も得てはいません。
もちろん評価を獲得することが好きで好きでしょうがない人は、評価を求めて快感なのかもしれません。
ですが、評価というものはどこまでいっても「その時限りその場限りその状況下限りでしかない」ということを悟るべきです。この道理を正しく悟ることであなたは呪縛から解き放たれるのですよ。
何故ならば、あなたは過去の評価をずっと握っているのでしょう。
誰かにその時に評価された呪縛に苦しめられているだけだと思います。
でも、それもその時限りその場限りだったのだと念じてみてください。
あなたを縛るものは何もありゃしませんぜ。
一歩踏み出して、自分の思いから救われて、あなたと同じ状況で苦しんでいる人も助けられるようになって自分史上最高の自分になって、神奈川の地を助けるヒーローになってください。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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