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考え方がダメだと分かりながら直そうとせず、周りを巻き込む母

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有り難し有り難し 12

母への考え方、態度の示し方で迷っています。

母は考えなくても良い事を延々と考え、その考えの中に自らの妄想を加えて勝手に決めつける癖があります。

本人が「生き辛い、何かが悪いのは分かるから直したい」と言ったため精神科を薦めました。
その精神科はトラウマ治療を主にしているのですが、先生はトラウマではなく自らの考え方に問題があると考え、色々なアドバイスをして下さったようです。

私や妻も母のどういった考え方が生き辛く、このように考えれば楽になるんじゃないかと話を繰り返してきました。
出来る限り分かりやすく、根気良く話すとその場では分かったようにします。
しかし、その後妻と二人きりで話をすれば「私を変えてくれる人、変えてくれる言葉に出会わないと変わらない」と言います。

私達や先生も含め、周りの人がどれだけ伝えても自らに変わる気が無ければ意味の無い呪文でしかありません。

そうにも関わらず、生き辛い、このまま生き辛さを感じるなら死んだ方が良いんじゃないかと言います。ほとほと呆れています。

私が物心ついた時から母の考え方について苦言を呈していたため私の前では分かったフリをし、都合の良い話し相手(妻)が現れると自分の話を延々と語ります。

楽しい話、嬉しい話なら良いのですが、内容は昔に腹が立った事、悲しかった事、そういった話ばかりです。
妻が自分の身の上話をすればこれ幸いと、私もそういう経験があると気が滅入るような話をします。

私は昔からなので慣れていますが、妻は立場もあり突っぱねる訳にもいかず、可哀想です。
妻の気が滅入るからやめてくれと言っても、考えもしてません。母と一日過ごせば二人とも疲労困憊。次の日のやる気すら削がれる勢いです。

まだ顔合わせしていませんが、母は相手方の母とも仲良くしたいと言っています。果てには一緒に住むのも良いかもしれないと。

私と妻の間に子供が出来た時に、「おばあちゃんは仲間外れなの?」と言わせたくないため努力しています。妻も同じ気持ちですが苦労させています。

変わらないと一緒にいる人が辛くなるので関わらない事も考えていると以前に言いましたが変わりません。私は考えているけど正解が欲しいと言います。正解などこの世にないでしょう。周りからも言われ続けています。

私はどのように考え対処すればよいのでしょうか。
智慧を貸して頂きたいです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

〇〇~♪(あなたの名前)

お母さんがあなたの名前をご機嫌で呼んでくれている姿を想像してみてください。
そんな難しい問題にしなくてもいいんじゃないでしょうか。
まず、そのままのお母さんを否定しちゃっているところがありませんか?
この母ではいけない、とか。
そのエネルギーって辛いんですよ。
まず、あなたはあなたとお母さんとがあっているとき以外はお母さんとあってはいません。
奥さんがおかあさんと合うのはそれは奥さんとお母さんとの関係。
うかつに首を突っ込まないことです。
あくまでもご本人同士のやり取りだという事です。
この問題は二つに分けるべきです。
一番の問題はあなた自身の問題。
お母さんのことを気に掛ける。奥様のことを気に掛ける。将来のことを案ずる。
これってみんなあなたの問題でもあるのです。
あなたがまず大丈夫になること。
そして、お母さんがより良くなるためには、考え方を変えるというよりは考えというものそれ自体こそが一番ものごとを捻じ曲げているものだと知ることです。
私はプラス思考講座なども開いていましたが、考えを変えるというのはファブリ〇ズで塗りたくるようなものです。元々の本来の姿をいくら消臭剤と称する別の香りで塗りたくっても、根本が解決しませんと変わりません。
根本の解決とは、まずそこに評価をしないこと。
良しあしを無自覚ながらにつけてしまっているのが人間。
今、自分の背中のことや足の裏のことなど忘れておったでしょう。
そこに考えを添えなければ、どんなに気になっていたことであっても問題が無いという事があります。問題にならない。問題視しない。問題化されないということ。
お母さんが自ら自分の考えを何とかしたいという志が無いのでしたら、それはあなたの都合でお母さんをどうにかしたいというだけなのではないでしょうか。
タイトルからしてそう感じました。
その位人間は自分の都合で物事を見ているのですよ。
よって、本当に見つめるべきはあなたがあなた自身の心に向き合うべきだということです。
お母さんはお母さんの人生。本当に何とかしたいと思われたら、そういう行動をとるようになる。
人生はあの人があの人が、アイツがアイツがと騒ぐ自身の心の震源地を知らずして、他を鎮めようとしても、永遠に揺れはしずまらないものです。
あなたの想定している図式をいったん捨てて、普通にお母さんと仲良くしてみることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

マインドフルネス

マインドフルネスというのを調べてみてはどうでしょうか。
心を落ちつけるヒントになるかもしれません。
考え方を変えるとかより、もっと具体的に、今すぐできるエクササイズみたいなものです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

願誉浄史 様
回答ありがとうございます。
実はマインドフルネスや歩禅は時々取り組んでいます。呼吸が浅くなる事が多く、そういった時に意識しているのですが、思考が落ち着くまでには至らない時もあります。
落ち着いて物事を見ると、母と距離を置くというのが今の取れるべき行動だと感じています。
悲しみが大きいのですが、悲しみも禅で落ち着ける対象なのでしょうか...。こういったところも勉強すべき点だと感じます。
ありがとうございます。

丹下覚元 様
回答ありがとうございます。
直したいというのがその場凌ぎの言葉だと分かっていたのに事実を捻じ曲げていました。
本来の母に対しての長年行なっている対応は相手にしない事。
ですから母が本当に変わりたいと思うまでは距離を置くことにします。
母のためと思って伝えてきましたが、母も一人の人ですから、変わって欲しいというのも確かに変です。母が今のままでいいならそれでいいですよね。周りも母と居れないと思ったら離れていくだけです。私が干渉する部分ではありませんでした。
自分の作り出した守るべきものに囚われていたようです。
ありがとうございます。

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