白か黒。0か100か。正義か悪か。
私は幼い頃からとても極端な性格で、
常に、白か黒、0か100、正義か悪か、
で生きてきました。グレーな部分や50%を
理解できず、生きにくさを感じます。
例えば、嫌いな人がいるとします。
そもそも目も合わせませんが、こういう原因で
私はあなたが嫌いです。と相手に伝えたいのです。嘘をついたり、それを隠して付き合う方が
私にはストレスです。それに、私もはっきりと
言われたいです。それで切れるならそれまでの
関係、不必要なものは切る。白か黒かつける必要がないのにつけてしまう。私にとっては正義でも
相手からすれば悪ということもあります。
でも、私の中の正義、自分が正しいと思えば
100%全力で相手が悪いのです。周りは上手く
立ち回って自分が損をしない様に、相手も不快な気持ちにならない様な関係を嫌いな人とでも築いています。子育ても、どんなに大変でもやるかやらないかしかないのです。どんなに大変でもご飯を作るなら品数を減らさず完璧にする。
できないなら最初から作らない。
一品だけでも作ろう!は有り得ません。
100%できないなら意味がないのです。
グレーな部分、50%にも意味があり大切なことはわかっています。そして、人を傷つけたとしても
はっきりさせたい白黒つけたい性格がいかに
自己中心的で幼稚か。実際はっきりしない場合や
できない場合、すごくストレスを感じます。
そんなときはひたすら我慢です。ですがもう
限界なのです。嫌いなものは嫌いと伝えて何が悪いのか。友達は、利用するとこは利用して
嫌いな部分は出さずに自分が得をする関係を築いています。相手はそれに気づいてないので、
思惑はどうであれお互いいい関係なのです。
私も挑戦しましたが無理でした。やはり、
嫌いなものは嫌い、そうまでして関係を続けたくないです。私が幼稚で自己中心的なのはわかっています。何も成長できていません。
ですが、生きづらさも感じています。
思い通りにならなくて当たり前だし、自分の意思とは関係ない人間関係も上手にやっていかなければなりません。このままだと自分のストレスにも耐えきれません。上手に生きる方法、ヒントをください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
0も100もないでしょう。よく見て!
0か100の物差しを持って世の中の人や出来事を常にジャッジして生きているのは辛いでしょう。その物差しがどの人にも当てはまるものであれば多分疲れないのですが人によって捉える感覚が違うものだから疲れちゃうのです。
仏教は人の価値観やそうした物差しの使い方を学ぶものではなく、物事に一切レッテルは存在していないということに気づくというところに視点を置きます。
例えばあなたが嫌いと言っている人も、「嫌いな人」として生まれてきたのではなく、何かのきっかけであなたが嫌いだと感じただけの話であり、それは真実とは大きく違うものです。
食べ物でもそうです。昨日ココイチのカレーを食べましたが、口に運んだときにそのものの味がします。それは真実でしょう。しかし、物差しを用いる癖がある人は、その直後に美味しいか不味いかを言います。
美味しい不味いは、味ではないのです。人によって違うものです。レッテルは貼れないのです。そこにジブンという我を通してジャッジをすることで自らを苦しめているのです。自分で自分を苦しめる行為であるなら、それを止めることで楽になれるのです。お釈迦様はそうしたことに気づかれ手放した人なのです。もっと言えば手放すことすらしなくても、始めからレッテルなんてなかったことに気づいたのです。
この坊さん私の期待する答えをする、とか、この坊さんは合わないとか、そうしたジャッジをしていては救われないのです。まっさらな気持ちでありのままのを受け入れることです。
私は禅宗の僧侶ですから、坐禅を通して気づいていくのです。素直な心でやればやっただけ楽になれますよ^_^
心身をほぐしていく
仏教を学んで、心身をほぐしていきましょう。
あと、まずは、自分の欲・怒り・怠け・プライドに気付くことが大事だと思います。
「嫌い」は「怒り」の煩悩。
料理を完璧に作りたいのは「プライド」の煩悩。
完璧に作れないなら1品も作りたくないのは「怠け」の煩悩。
「完璧にできないからやりたくない」のは、怠けの煩悩の言い訳かもしれないので、注意しましょう。
たとえば、結果ではなく、作業時間を基準に考えてはどうでしょうか。
たとえば、30分間でできる範囲の料理をしよう、とか。
小学校時代の掃除の時間みたいに。
完璧に掃除しなくてよいのです。決まった時間内にできる範囲の掃除でよいのです。
できることをできる範囲でやればよい。
たった1歩でも進まないよりはマシだと考えましょう。
家事などをするときは、好きな音楽でも聴きながらリラックスしてやりましょう。
苦痛な時間として家事をやるのではなく、音楽を聴きながら楽しむ時間だと思いましょう。
余談ですが、私は、米をとぐときに「仏身観」というお経を暗唱しながらとぎます。
そのお経の時間が、米のとぎ上がりの目安にもなりますし、お経を読めたというありがたい気持ちで楽しくなります。
嫌いな相手だからとかは考えず、今の1分間の会話を楽しく過ごせばよい、相手は誰でもよい、と考えてみてはどうでしょうか。
全ては自分の中の0か100。自分の中に物差しの目盛りはある。
こんにちは。亀山純史と申します。
あなたの0か100の判断、正義か悪かの判断、そのどれもがあなた自身の中の物差しによる判断ですよね。たとえば、あなたが例に出されていた「ご飯を作るなら品数を減らさず完璧にする」ということ、ここでの品数とは、あなたが自分で決めた品数でしかありません。つまり、あなたの生き方は、自分で自分が歩く道以外の土をすべて取り除き、自分自身が歩くのを不自由にしているだけです。
このような状態から抜け出すためには、常にあなたの物差しの目盛りを変えることでしょう。たとえば、パソコンで画像Aのトリミングをするとき、トリミング前の画像Aの大きさを100%とすれば、トリミング後の画像Bは、画像Aの何%かを失ったものになります。しかし、そのトリミング後の画像Bをさらにトリミングしようとすれば、今度は画像Bを100%と見ることになります。つまり、物差しの目盛りが変わるわけです。このように、物事を見る物差しの目盛りは変わります。あなたの目の前にある物事に、物差しの目盛りがついているわけではありません。物差しの目盛りはあなた自身の中にあるのです。
以上が私からの回答になります。少しでもお役に立てれば幸いです。