そんなことはあり得ないのに
とても、人間として恥ずかしい疑いを持ってしまっています。疎遠になった友人とのことです。
お坊様方の広いお心で受け止めていただければと、赤裸々にお話しいたします。
わたしには、幼い頃から成人前まで、Aさんという親友が居ました。けれども、彼女とは18歳のときに、わたしの落ち度でほぼ絶交状態になりました。受験勉強に忙しく、1分1秒をも惜しんでいた彼女との待ち合わせに、わたしが何時間も遅れてしまったからです。
彼女は、「親友だと思っていたあなたに裏切られた」と話していました。それから、2年ほどずっと、わたしなりに彼女にどんなひどいことをしてしまったか考え続け、メールで気持ちも伝えて改めて謝りました。しかし、そのときのAさんは「わたしは怒っていない。あのころのことはとても辛くて思い出したくない。怒ってもいないことに謝られてもどうしたらいいか分からない」という返事でした。Aさんとはそれっきりです。
それから数年経ち、Aさんより前に疎遠になっていたBさんという友人と再会しました。小学生のころ、Aさん、Bさんとわたしは大の仲良しで、いつも一緒に居ました。中学校に入って、急にBさんと疎遠になったのは、ずっとわたしのせいだと思っていました。でも、再会したとき、Bさんは涙を流してくれ、その後のメールで「中学校の人間関係の中で私が貴方を裏切った。合わせる顔がなくて離れていった」と教えてくれました。
再会した当初、わたしはBさんとまた仲良くできたら嬉しいと思い、Bさんも二人で会いたいと言ってくれていました。しかし、しばらく時間が空いてメールで連絡したところ、Bさんは別人のように冷たい態度しか示してくれなくなりました。
ここで、わたしは人間として恥ずかしい疑いを持ってしまいました。まさか、AさんがBさんに、わたしと付き合うな、と忠告したのだろうか、と。AさんとBさんは、それぞれがわたしから遠ざかって以降も親しかったようです。
それから後も、Aさんとは知り合いで、わたしとは大変親しかったCさんという友人もわたしから離れていったりしました。まさかAさんが?とここでも大変恥ずかしい疑いを持ってしまいました。
友人が離れていくのは、わたしが至らないせいです。何をされても、不足を言える立場ではありません。
だから、こんな恥ずかしい疑いなどきれいに忘れたいです。どうすれば良いのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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また、友と出会う日があれば、笑顔でスタートしたらいい。
ん〜 どうなのかな〜。
今さら、裏で連絡を取り合って、あなたのことを非難するほど、暇じゃないんじゃないかしら。
そんなネチネチしたタイプなら、もうとっくに、あなたを責めて攻撃されているわよ。
あなたの、思い過ごしだと思うわ。
あれから、月日が経ったわ。
記憶の中で、消えないものかも知れないけれど、皆 いろんな経験を通して、その出来事だけに執着することなく、記憶は薄く薄くなっていくものです。
あなたが今、再開によって、その記憶が蘇ったのだろうけれど、周りは あなたが思うほどではないかもよ。
また、いつか、友と出会う日があれば、笑顔でスタートしたらいいじゃない◎
文字のやり取りだけでは誤解が生じる
友達が離れていったこととAさんの話は繋がっているかどうかはわからないでしょう。疑う必要はないと思いますよ。
メールなどでやり取りしてあとは悶々と考え続けていてはずっと誤解していればそのままになります。一番いいのは直接話すこと。会えなければ電話でもいい。生の言葉で伝えることが大切です。本当は表情も見ながら話せば誤解はされにくいですよね。
想像したり裏を考えたりすることは真実とは程遠いことです。
友達を大切にするなら直接会って話すことです。それでも離れていくならそれまでです。仕方がないことです。
ハスノハでも、文字のやり取りが基本ですから誤解されてる事もあります。そして、ときに反感を買う事もあります。文字ではリアルが伝わらない。仕方がない事です。ですから一番いいのは直接話す事です。
回りくどいのは嫌じゃないですか^_^
今後、AさんでもBさんでもいいですが、
心から信頼できる友達ができるといいですね。
質問者からのお礼
教善寺 中田三恵様
わたしをいつまでも責めるほど暇ではない。
本当にそうですね。わたしは、どなたかにそう言っていただきたくて、ここに告白したのかもしれません。迷い、疑いを絶ちきることができました。
本当にありがとうございます。
記憶は薄くなっていくもの。薄くしないように努めなくてはならない「記憶」もありますが、わたしはこの記憶を薄くしていって、笑顔でまたAさんBさんに会える日を待ちたいです。
円通寺 邦元様
友達を大切にするなら、直接会って話すこと。
それは普遍的な真理なのかもしれないと、お答えをいただいて改めて感じました。孔子も友達が訪ねてくることの喜びを言っていますし、キリスト教でも、顔を合わせて一緒に食事を取ることは、仲間になることだという考え方があります。
ここで挙げた人たちとは、なかなか会うことが難しいのですが、ご縁を待って直に会いたいものだな、と思いました。少々恐怖心もありますが。
想像したり裏を考えたりすることは真実とは程遠い。
自分の目で見て、耳で聞いて、生で感じたことから真実を導くという姿勢でいたいと思います。
たくさんの気付きを得ることができました。本当にありがとうございました。