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自己肯定感の低さ

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自己肯定感の低さに悩んでます。
少しでもそんな自分にプラスになればと、絵を描くのが好きなこともあり趣味でSNS上に作品を上げているのですが、見てくださる方から反応をいただいても、無理矢理感想を言わせてしまっているのではないかと思わずにはいられないです。(交流があって作品を見てもらえている部分が大きいので)

また友人から、率直に作品を好きだと言ってもらえているのにも関わらず、その気持ちを素直に喜べず、ないがしろにしてしまっている自分がいます。
友人は物事に関してキッパリしているので、社交辞令で私を持ち上げることはなく…わかっていながらもつい「でも…」と口をついてしまい友人からも呆れている状態です。 いつも応援してくれて本当ありがたいことなのに…

このように、やはり自己肯定感の低さで自分への好意や賞賛がどうしてもうまく受け取れません。
そのようなふるまいが相手にとって失礼なのもわかっています。
少しでも自分自身が変わりたいと思ってはじめた作品の発表ですが、結局自分の気持ちとなかなか折り合いがつけられない現状にこのまま続けても変わらないのでは…と思ってしまいます。
せめて身近にいる友人の言葉を素直に受け入れたいのですが…どういう心構えをしたらいいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

褒められたら、何も考えず、ありがとう。そこで終わり。

あなたは、マイナスの言葉を言われた方が素直に受け入れることができ、落ち着くところがありませんか。
あなたは、そういう思考の癖が付いているだけです。

褒められても、すぐその後に「そんなはずない」と言葉の足し算をしている。それは根拠のないあなたの頭の中で作り上げられた嘘だと気づいてください。事実は、人から褒められた。ここで終わり。

そこであなたの頭で考えた言葉を足し算するから、矛盾が生まれ苦しみます。
普段の生活の中で、一人ごとをやめ、事実のみで終わらせることを練習して下さい。

思いが出てきても手をつけないで、そのまま。
ジャッジするくせをなくします。その前で終わらせます。事実は終わっているのです。そこに気づいて欲しいです。

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おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

謙遜も行き過ぎれば美徳に非ず 

日本人は謙遜の美学があります。
陰徳、慎み、謙譲、和の精神。
ですが、これが行き過ぎてしまうと悪く働いて抑圧にすらなります。
オモテナシといっても行き過ぎればオリンピックの建造物のように見栄を張りすぎてオカネナシ。
「オモテナシ」とのキャッチフレーズで慎みさわやかアピールでも何もない様に見せてもウラはあるものです。
現代の日本の美徳は美徳でありながらも、それが裏目に出ているものが多いものです。
慎み慎み、へりくだり。
それが為に、日本人は世界の中で比べても自己肯定感がもっとも低い国と言われているのです。
「愚かな息子ですが」「ふつつかな娘ですが」「うちの娘なんてとてもとても」
親が謙遜のつもりで人の前であえて、へりくだるのですが聞いている子供としてはたまったもんじゃないし、自分嫌い、親嫌いなるというのが本音です。
親の美徳という名のもと、慎み共和主義、謙遜が行き過ぎて変な思想化していませんか?
親の影響は大きいものです。
我々僧侶は第三の家族。
あなたたちの家族がうまくいくようにご助言として働きかけるだけです。
家族のルールといっても、自分を苦しめるものであれば、あまりそこに縛られないように致しましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丁寧な回答ありがとうございます。
たしかに終わった事実に対して、自分のなかであれやこれやむだに考えてしまう思考の癖がついてました…
変に悩んでしまうのもこれが原因かもしれません。

これからはもっとシンプルに捉えられるように、事実のみを見ていけるように意識してみます。ありがとうございました。

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