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生まれなければ良かったと思ってしまう

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昨日誕生日でした。

今は私は引きこもり主婦で、親に心配かけてばかり、夫とは離婚協議中です。

以前は夫の義両親との同居がうまくいかず、別に家まで購入したのに、相手の親には迷惑かけてばかりです。

また、無事に成長した子供も、一人は大変な罪をおかし、一人は引きこもりです。
私には話せる友達もいません。ここ数年で、仲の良かった友達と次々と疎遠になりました。

私なんて生まれなければ良かったのにと、思ってしまうのですが、生まれたからには頑張って生きていかないといけませんか?

子供の罪の重さに自分も罪に感じ、夫の家を潰してしまうことにも申し訳なくて、今後、自分自身がやりたいことや嬉しいと思えることは、自分が老後になる頃までは、一切我慢していこうと思ってしまいます。

今後どう過ごしていけば良いのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

懺悔

お誕生日おめでとうございます。🎊🎉
(´Д`)(´▽`)(´Д`)わ、わーい♡
気持ち落ち込んでるけどとりあえず、わぁーい。
はい。気持ちを入れ替えましょう。
花束は贈れませんが、ご自身の気持ちを新しくしていただければ心は花が咲きます。
自分に花を贈るためにも自身はいつでも花が咲いていることを自覚しましょう。
人は同じことをしていても、毎日いつでも新たに新たに生きているのです。
ハスの花は人生のドロドロの沼から咲いてもドロドロに染まらぬ心。
自分が自分の思いのヘドロに染まらんようになることです。
まずあなたがあなたの人生をしっかりと自身の本来の心の静けさを取り戻すためにも、懺悔をお勧めします。
誰に謝るというのではなく、仏前でお手合わせを頂き懺悔をいたしましょう。
家族という存在は時として互いに縛られ合うものです。
ですが、ご主人はご主人。
あなたはあなた。
お子さんはお子さん。
兄弟は兄弟。
あなたは立場があっても、それぞれの存在とは別々の生命体であるという自覚を持ってください。
そして、心というものは瞬時瞬時、変化している。
さっきまで考えていた暗い気持ちや失望も今も永続しているわけではありません。
今はどこぞの知らぬボーさんからメッセージが来て、今のケミストリーが脳内で始まっています。今は今のことしかないのですよ。
ただし、ここで自分の考えを優先させる人間は、坊さんや他人に助言や質問をしても「自分をやり続けてしまう」生き方になり、成長がありません。
人から助言を頂くという事は、それまでの自分の優先採用していることを捨てた状態で話を受け止めなければ意味がありません。ビジネスで言えば、いくらやっても成功しない、上手くいかないから専門家の下で経営を学びに行っても、そこでも自分をやり続けたとしたら人生は変わりません。今自分が「こうだ」「どうせこうだ」「かわらない」と思い込んでること・握り続けていることを思い切って捨てなければいけません。
人は執着が多いと一人でいても誰かに縛られます。人といても孤独です。
人は心安らかであれば一人でいても心は寂しさがありません。人といても上手く関われます。
人生は毎旬、毎秒が誕生日です。
今は、今の一呼吸。
さっきまでの「わたし(自分)」と決別して思い切って捨て去って、今の心に目覚めましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

我慢することはありません。

ねこりん様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

我慢すると、またそれがストレスとなり、悪循環となることも。どうか、あまり無理に我慢なさられずに。

まあ、とにかくhasunohaを貴女様の一つの拠り所となさられて下さいましたら。

過去のことは、過去のこと、どうにもできないこともあります。でも、これからであれば、色々と努力していくことで、変えていけることがあります。

そして、これからにより、過去さえも(事実は変わりませんが、過去をネガティブに捉えてしまっていることを)変えることだってできるのであります。

では、いかにしてこれからを変えていくか。

是非、hasunohaを頼りとして色々とご相談下さいませ。

川口英俊 合掌

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おきもち

最新の仏教論考はこちらでご覧頂くことができますが、公開、非公開は随時に判断しています。 https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

過去は変えることは出来ませんが、受け入れて過ちを認め、今は毎日平穏に過ごせることに感謝し、前に進んで行けたらと思います。

ありがとうございました。

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