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心無い言葉を言われた時の立ち直り方

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相談させてください。

私は軽度の発達障害があり、物忘れが激しかったり、その場の空気が読めなかったり、人とコミュニケーションを取るのが苦手だったり、感情的になったり、吃音があって話す時にどもってしまうという特性があります。
その為、悪気は無いのに人から嫌われたり、誤解されたり、馬鹿にされることが頻繁にありました。

私はこの障害のため、知らず知らずの内に相手を傷付けることを言ったり行動を取ってしまっているかもしれません。しかし、故意的に人を傷付ける言葉や悪意のあることを言ったり、騙したり、陥れたりすることはした記憶はありません。
しかし私はこれまで、悪意としか受け取れない心無い言葉を幾度も言われ、その度に深く気付き、時には抑鬱状態に陥ることを経験してきました。

もちろん、説教のような、私のことを思って言ってくれているような厳しい言葉や、私に非があり相手を怒らせ、相手も何か言わないと気が済まなかったんだなと思わせるような言葉は真摯に受け止めます。
しかし、明らかに悪意しか無く、ただ私を傷付けたり馬鹿にしたり見下して、しかも人前で言われ、自分が優越感に浸ったり楽しんでいるとしか思えない事を言われた時は、悔しくて情けなくて、怒りが何日も収まりません。

今でもふっと過去に言われたそのような言葉や状況を思い出す時があり、また怒りが込み上げ、どうしようもない気分になることがあります。

例えば信用していた友人から言われた、私の人格を否定するような言葉や、私が友人が少ないことを馬鹿にするような言葉、私は就職も普通の結婚も出来ないというような差別的な言葉などです。また、陰口を言われたりあることないこと噂を言いふらされてもいたようです。

今は就職も普通の結婚もして、少ないですが信頼の置ける友人も数人出来、苦労もありますが普通の生活をしています。それゆえ、ますます過去の言葉が許せないのです。

こうして文字にし起こすと、「え、それくらいのことで?」と思われてしまうかもしれませんが、気持ちの切り替えができず、あれはどういう意味だったの?と悶々と過ごしてしまうのです…。

このように過去の嫌な思い出と上手く付き合っていくにはどうすれば良いでしょうか?
私にどうか道を示して頂けますでしょうか…。どうぞ宜しくお願い致します。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたが引き寄せて心を伴わせている

それはいつでも今やっていると気づくことです。
たとえばバカと言われたとしても、バカと言われたその音声はすでに終わっています。
それを取り上げていつまでも抱えているのは誰か。
山奥にバカ野郎と書いてあったとします。
それで傷つく人はいません。
読まなければ知りもしません。
それを心で拾い上げて気にする人間はだれか。どこか。
仮にネットのどこかのページで悪口が書かれていても、こちらが知らなければダメージはありません。仮に本人から直接言われたにしても、こちらが取り込まなければなんでもありません。
いつも今を無駄にして、今を使って要らぬことを拾い上げているのです。
あなたが誰かにバカと言って、その人がいつまでも気にしていたら不思議に思うはずです。
コトバに罪があるのではなく、それを拾い上げてずーっと私が責められたとネガティブな思いを起こす、自分の被害者意識こそが実は苦しみの元であるという事はあまり世間では知られていません。
人が人のことを悪く言うことがあって、それが許されることがあるとすれば、唯一その人に直接的な被害や迷惑をかけて怒らせて、何かを言われるということくらいでしょうか。そうでなければ悪く言われる筋合いはありません。
もともと、何でもなかったことを問題視・問題化するのは誰でしょう。
実はみんな自分が過干渉だったり、過剰に自分のことにしてしまうことが問題なのです。
だからこそ、我を鎮めて、わたしわたしという意識を過剰に燃やさずに、静かな心を身につけましょう。そのためには坐禅が良いでしょう。
坐禅して、この自身の上に「わたくし」「わたし」「じぶん」という認め事が起こる前の自分に出会うことです。
わが身我がことに引き寄せて、いたずらに心を迷わす原因は、それもわが心のあり方であると知ることで苦しみから解放されることでしょう。
過去の嫌な思い出というのは今はもう無い事。取り返しのつかないこと。
過去の嫌な思い出の正体はあなたの今の一念なのです。
あなたの今の思い起こしがあなた自身を今苦しめているのです。
本当に今を謳歌する人は、過去のデータより目前の今の出来事に親しむものです。
禅は思考を離れた生き方です。
思考ファーストではなく、事実ファーストになる生き方です。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

相手の能力が低かった

悪いことを言わない、悪いことをしない、悪いことを考えない。
これらをできることは、とても能力が高いことなのです。
反対に、悪口をすぐに言ってしまう人は、心の能力、善の能力が低いのです。
能力には個人差があります。
「なぜあの人は私にあんなひどいことを言ったのだろうか。あれはどういう意味だろうか。」
そう思ったときは、
「あ、そうか。あの人は善の能力が低い人だったのだ。だから、言ってはいけないことを言ってしまったのだ。」と思いましょう。
走るのが不得意な人もいるように、
悪口を言わないことが不得意な人がいるのです。

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おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

お二方ご回答ありがとうございました。

どうにもならない過去の記憶を思い出して苦しむより、今に集中して生きるよう努力したいと思います。いつか座禅もしてみたいです。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ