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自分と他者の違いを認めるにはどうすればよいですか

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他人の感性や考え方に共感できないと「自分を否定されている。相手が間違っている」と感じてしまいます。

感情的になって人との関係を絶ってしまうことが過去にありました。

自分と他者の違いを認め、お互いに自然体でお付き合いしていくにはどうしたらよいのでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

【追記あり】三悪趣の私の姿を照らされて

おっしゃる通り、「自分と他者の違いを認め、お互いに自然体でお付き合い」ができればよいのですが、これが中々できませんね。
どうしても自分中心に考えてしまい相手を受け入れられないことがあるものですし、自分中心になっているということすら認めたくないという自分すらもいるのが私の姿です。

そのような私の姿が三悪趣(さんあくしゅ・さんまくしゅ)という三つの悪い在り方として説かれます。地獄・餓鬼・畜生の三つです。

地獄とは言葉の通じない世界。「獄」という字は二匹の犬がお互いに吠え合っていることを表した文字です。自分の主張だけをして相手の言葉に耳をかさない姿です。

餓鬼とは貪りの世界。まだ足らんと、ないから欲しいのではなく、あってもまだ足りないという、自分がどうすると満足するのか知らない姿。

畜生とは自己関心のままに突き進み、自我に振り回されて主体性を失い、自分の中にのみ閉じこもっていく姿。

こうした三悪趣の無い世界が浄土として説かれます。だから私たちは浄土を願うのです。しかし願ったところでこの私の今いる場が浄土になるわけではありません。この世は穢土なのです。娑婆ともいい、耐え忍ぶ世界という意味です。どちらかを立てればどちらかが引っ込むように分かり合えない世界を生きているのが私たちなのです。

つまり、どこまでいっても三悪趣のような在り方へと堕してしまう自らの姿を明らかにするものとして、浄土が私にはたらいてくるのです。

三悪趣が自らの課題となることが救いなのです。三悪趣に堕していないと威張るのが私たちの迷いです。迷う者が迷いに気づくことが救いです。
迷いに気づいたならば、気づかせてくれた教え(たとえば浄土の教え)という方向性をいただいて、迷いながらブレながらでも歩んでいけます。迷う私をも認められるからです。

他者を認められない私を認めつつ、だけれどもただその在り方に自己満足するのではなく、どうしたらよいかと問うていけるのです。

【追記】
迷いながら問い続け歩む道は確かに厳しいですが、わかりあえるはずという理想に振り回されて歩む道の方が厳しいかもしれません。
また、仏教一般は煩悩を滅して悩みをなくし楽にいきられる道を求めるものであり、たとえば邦元師の説くような道ですが、その道が本当に自分のこの身に間に合うかはごまかさずによくよく確かめる必要があります。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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難しい事は考えず

悩みをなくすためには、人と比較して違いを見つけた後に、その違いを認めるということでは解決しません^_^

それ以前が仏教です。
違うともならない。ということです。

一般的には、私はこうです。というレッテルを自ら貼り、その後にその貼り付けたレッテルと他人を比較してあーだこーだやるということ。ですが、レッテルを貼る以前。貼り付けることもできないリアルに生きるということです。

例えば私は自分をとてもシャイボーイだと思って生きてきました。
今でもそういう一面はありますが、家族や気の知れた友達のまえでは恥ずかしがることもありません。もちろん今もこうして文字を打っていても恥ずかしくもない。赤ちゃんや子供動物の前でも恥ずかしくはない。つまり、相手を「認める」と恥ずかしいと思うのです。こんな時お坊さんは自分自身の体に学びます。
あれ?私の目は何にも恥ずかしがってない。体も耳も人を「認めたり、レッテルを貼ったり」一切していない。それがリアル、真理である。事実に出会った直後に考えたこと、自分ルールにより貼ったレッテルより、事実の方が信じられる。^_^

こうして学ぶのです。ですから人と比較する前に目は今目の前の様子をありのままに写しているだけです。そこにジブンというフィルターをかける前の様子がある。だから善悪、優劣、好き嫌い、損得、白黒がないでしょう。全部認識した後の取り扱いに過ぎない、後追いなのです。そんなレッテルを貼っているうちにリアルは変化していますから、そちらに目を向けてほうがいいのです。

人と比べる前にありのままのの目の前のようすを既に受け入れている自分の存在があることに気づくのです。これから受け入れるのではなくすでに受け入れている。だから、仏教は人を救うのです。これから何かするのではなく、気づくだけで楽になる教えだから。

考え方でどうこうするのではなく、体に学ぶのです。やってみてください。わからなければ、少しお寺のフェイスブックとか覗いてみてください。そして興味があればお越しください^_^
仏教には難しい言葉はいりません。
自分の存在そのものを表しているのですから。

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おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

回答してくださり、ありがとうございます。

「三悪趣が自らの課題となることが救いなのです。 迷いに気づいたならば、迷いに気づかせてくれた教え(たとえば浄土の教え)という方向性をいただいて、迷いながらブレながらでも歩んでいけるからです」とありましたが、迷いながらブレながら歩む自分はとても惨めで不恰好だと感じてしまいます。

苦しい修行のようなこの人生を受け入れるまでには多くの葛藤があります。

問い続ければ、いつかは救われるかもしれないけれど、それまではずっと生きる辛さや苦しさから逃れることはできないのでしょうか?

邦元様

回答してくださり、ありがとうございます。

相手や自分にレッテルを貼ることによって感情的な葛藤が生まれるのならば、そのレッテルを貼る前のまっさらな真実に目を向けよということでしょうか。

ありのままを見ている自分に気づいていないから、それ以降の意識がかけたフィルターに惑わされているのでしょうか。

ありのままを見ている自分に気づくには、座禅や瞑想に取り組むとよいのでしょうか。

以前から座禅や修行体験などに興味を持っていたので、お寺のフェイスブックを拝見してみたいと思います。

【追記】

吉武文法様

人間は、理不尽な現実を受け入れられないから、不安になったり苦悩したりするのかもしれません。

現実を認めず、理想に振り回され、苦悩しつづけるよりは、迷いながらでも問い続け、一歩一歩歩んでいくほうがはるかに救いのある生き方なのかもしれません。

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