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ホッタラケの功徳に関する質問

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有り難し有り難し 22

 ホッタラケの功徳(https://hasunoha.jp/questions/10395)を実践して2年近くたちます。坐禅会にも参加しています。
 実践してみた結果、疑問が出てきました。質問しようか、自分で解決しようか、数か月間ずっとためらっていましたが、自分では解決できないので、思い切って質問させていただきます。
 社会的な成功(富・人気・名誉・大量生産で社会貢献・親孝行・楽しい家庭など)を、捨ててかからないと、「ホッタラケの功徳」は完成できないと思います。悟れないと思います。
 生計を立てて生きていくために社会的な活動はせざるを得ないし、その結果として、お金が貯まったり、周りから褒められたりすることはあるかもしれません。
 しかし、精神的な苦しみから完全には解放されることを目指すなら、あくまでも「生きながらに成仏すること」を第一目標に、何をやっていてもそれ一筋で生活しないと、とてもじゃないけれど、ムリなのではないかと思います。
 私自身の経験から、坐禅を実践してみて、「もっと人から良く思われたい」とか「お金持ちになりたい」とか言ったことに価値を置いてしまうと、思考が活発化して、湧いてくる考えを放っておけなくなるのです。自分のなかで目指していることの矛盾を感じて、混乱しています。坐禅も進まないし、やらねばならないことも停滞してしまっています。いったい自分は何を生きる目標にしているのか、と自問自答しています。
 「ホッタラケの功徳」を継続して実践していくには、「世間的に成功するかどうかはどうでもいいけど、人類全体には貢献する」というような覚悟(あるいは割切り)が必要なのではないでしょうか。
 ご教授頂ければ幸いです。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

放っておくっていうことを「やる」のは「放って」いない。

坐禅って、何かを構えたり、よそおったりすることではありません。
放下とか、放っておく、手を付けないと言っても、それを「やる」姿勢があなたにあると、それは思考のペダルをこいでいる姿になる。
観る自分がある。眺める自分がある。やる自分があると本当の意味で放っておけない状態になっているのではないでしょうか。
DO、やる、する、構える、坐禅❝する❞ような、能動的な姿勢があると、私が申しあげるところのホッタラケではありません。
本当に放っておくという事は、放っておくとか、放下とか、ホッタラケということもないのです。
そこを説明で言うと「放っておく」という言葉になる。
それを言葉で追うと「やること」が生じる。

元々人間って何も為すことがない様子がある。
そこを探るのに、思考という能動的なツールを用いては到底得られない。
本当に何もなされない様子「無為・無作」を会得するには、感覚・感受の作用を用いることが望ましいでしょう。
黙っていても、何か聞こえてくる。
そこにわたし意識が介入されなくても聞こえている。
ただ聞こえている時には、私(自己)の介入がない。
コメントも感想も思い方も捉え方も見解が全くない。
そこに悟り・正覚のヒントがあるのです。
悟りというのは人間の考えでありません。
非思量・不思量という考えを離れた自己の様子から眺めた人間の見解無しの様相(法相)をみることです。
考えをツールにしていると、どうしても分析・分別・思考ビジョンになる。
そういう状態でホッタラケになろうとしてもそれは思考のペダルをこいでいる状態。
そのちょっと前に人間には、思考が起動する前の様子がある。自分だ・私が・おれがという自分意識が一切立ち上がらない様子がある。坐禅というのは、そこを明らかにするのです。
自己とモノとの関わりが人間の見解無しに現われている様子。
名づけも生じない。拾い上げも生じない。見解のペイントによる事実への介入の無いさま。
ちょうど邦元師がある老師の動画をアップしてくださいましたが、こちらの老師の言われるところをやってみてください。
これから何かをするのではありません。
元々の様子に用があるのです。
これから何かをやろうとすることは作り替えることです。
本有の。元々の。最初から。いつでも。
自分がホッタラケにするんじゃないのです。
元々、この身が最初から放じているのです。

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有り難し
おきもち

救いを理想像に求めない

多分坐禅をしていらっしゃるのでしょうが、その方向性が違うのではないでしょうか。何か他に求める雰囲気がないですか?今の自分自身の様子の中に悟りはあるのです。



坐禅をするには、導く力のある方にご指導いただく必要があります。
自分勝手な捉えや、こういうものが悟りだろう。全ての生活を捨てないと無理だろう。という考えは、自分の価値判断に過ぎず真実、真理とはちがうのです。
坐禅とは何か、修行とは何か、その辺の方向性を間違えていてはいつまでたっても解決しませんから、自分の今のありよう以外には救いはないということを知っていただきたい。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

邦元様,丹下覚元様,お時間を割いての丁寧なご回答を、ありがとうございます。
方向性が違う、「作為的に放っておく」坐禅をしているというのは、わかりました。
先生方のご回答を印刷して、わかるまで読もうと思います。
まずは、ご紹介のあった老師のところに通います。
しかし、まだまだわからないところがあるので、更に質問させていただきます。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

有り難し有り難し 34
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