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人間関係が続きません。

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こんにちわ。25歳の女性です。
私は、本当に人間関係が長く続きません。

理由は、私が連絡不精だからです。
メールやラインに対して、何故かとても抵抗感があり、そのせいか、人から連絡が来ても返すのがとても遅かったり、途中で切ってしまったり、スルーしたりしてしまいます。

本当に自分でもクズだと思うのが、
私を心配してくれている人たちからのラインをほぼ無視してしまったことです。
久しぶりに会おうと言ってくれる人からのラインも返さない為、多くの友達と疎遠になっています。

そんな自分に引け目や相手への罪悪感で、余計連絡が出来ずにいます。
人からの連絡を大事に出来ない自分が情けないし、苦しいです。

けど、コミュニケーション自体は好きで、対面だと寧ろ、笑わせたり盛り上げたりしています。

人との縁はとても大事だとは知っているのですが、どうしても”連絡”となると、億劫になって仕方ありません。
連絡がまめだったり、付き合いがいい人になりたいです。
こんな自分を変えたいです。

どうかお言葉をください。よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ライン、メール苦手な人はいます。

あなたが周囲にそういう人だという事を口頭で伝えておくとよいでしょう。
ただでさえ、反応が悪い人だと思われているのでしょうから、それでもいいでしょうが、メールやラインが当たり前の人たちにとっては「なぜ返信をくれないのかなぁ」と純粋に疑問に思う人もいると思いますから「ごめんね、ラインの返信苦手なんだよね💦」と普通に送っておけばよいと思いますが。私も坊さん仲間でグループに加入してもらったりしますが、アレってしゃべりたい人がしゃべるだけで、周りは別にどうでもいいのにしょっちゅうキンコンキンコン連絡が来るので、私も抜けちゃいます。
学生時代、友達との関係が続かないとか思ったことがありますが、現在40過ぎのオッサンになって確信していることですが、人生友達はホンットに気の合う人が一人二人いて年に一度くらい会えれば十分だと思います。
お釈迦さまの弟子たちがもし、友達関係でもめたりしてたらウケると思いませんか。
坊さんたちというのは法友・勝友と言って、勝ち負けや優劣を離れた関係なのです。
出家したり、仏法を求める人たちというのは、世間のグダグダな人間関係に無理に合わせず、みんなマイペースです。
そもそもどんなに仲がいい友達だって数時間一緒にいれば相手の悪い所だって見えてきます。
人間関係という言葉を捨ててしまいましょう。
一人でいたって別に問題はないのです。
むしろ、人生における最強の力は一人で居られることでしょう。
私は一人でいることの方が気楽です。親友とたまに会うこともありますが、同じ人なんていません。気楽が一番だと思います。
昔のお坊さんで良寛さんという人がこういう歌を残しています。
「世の中に交わらぬとにはあらねども一人遊びぞ我はまされり」
世の中に全く交わらんというわけじゃないけど、独りで悠々自適に今を楽しんでいる自分はこの上なく安楽である。
本当の一人って孤独じゃないのです。
坊さんが坐禅したり仏道修行するのは、自分に向かっているのです。
こんな自分じゃいやだとか、独りじゃ寂しいとか、あれこれ動き回る自分の心をこそおさめているのです。
せわしく動き回る心のモグラを静かにさせてみましょう。
寂しいと思う心すら静まるようになるのです。
そうすると、人間関係に振り回されないからこそ打算的にもならず、普通に誰とでも接することができます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様、お返事ありがとうございます。遅くなってすみません。

一人でもいいんですね。
そう言って頂けて、少し楽になりました。
後、人間関係という言葉を捨ててしまう、という言葉が新鮮で衝撃的でした。
たしかに、“人間関係”というものに、縛られすぎている気がしてきました。
もっと楽に考えてみます。

悩みを聞いて、アドバイスをくださって、ありがとうございました。

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