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ホッタラケの功徳に関する質問 その2

回答数回答 2
有り難し有り難し 10

 アップいただいた動画を、拝見致しました。ありがとうございます。
 前回のご回答と動画で、坐禅ということを説明や言葉で理解すると、ダメなのはわかりました。自分で勝手にねつ造した”悟りの境地”や“坐禅の方法論”や“坐禅の手段”は、ことごとく通用しないということも分かりました。
 しかし、そうなると、とても不安になります。どうしても、何らかの方法論や手段に頼ろうとしてしまうし、その結果、自分を観察して、分析して、改善しようとしてしまいます。「私は、○○だ」「うまくいった」「ダメだ」とかコメントを入れてしまいます。自分が見たもの、聞いたもの、したことを観察して、その観察した自分をさらに観察して、二重にも三重にも生活してしまいます。
 そういうコメントを入れてしまうのは、それを止めるとかえって物足りない気がするからだと思います。観察しないと、「こんなのでいいのかな?」と非常に不安になってしまいます…。
 それでも、理想を求めて自分を観察してはならないのでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

 『   。』という事実

先のご質問に対するお二方の老師のお言葉を
どのように受け取られたか分かりませんが、

『どうしても、何らかの方法論や手段に頼ろうとしてしまうし』
頼るな!とおっしゃっていたでしょうか。
『そういうコメントを入れてしまうのは、それを止めるとかえって物足りない気がするからだと思います』
観察を止めろ!とおっしゃっていたでしょうか。

にっくさんは、
観察することにも
それを止めることにも
こだわってらっしゃいますが
どちらも純然たるあなた自身そのものでしょう。

「手段に頼ろうとしてしまう」事実がある。
「改善しようとしてしまう」事実がある。

ただそこには事実があるのみ、ではないですか。

観察を止めろ!などというのも結局、造作でしょう?
「造作が起きる」事実。
「造作が無い」のも事実。

事実は事実なのだから、ある意味それで堂々としていられるでしょう?

方法や手段に頼りたければ、分析したければ、改善したければ
堂々とおやりになればよろしいでしょう。
正しいと思うことをおやりになればよい。そうではありませんか。
それのいったいなにが、問題ですか?

また一方で
「その逆をやると、不安になってしまう。
やっぱり理想を求めたい自分がいる。」
という事実が分かったのです。
それもホッタラケ?の功徳かもしれませんでしょう。

ですから
坐禅は、理想を求めない、という姿勢をいいたいのではないはずです。
『理想の~』とか『ダメな~』という
いわゆる「『修飾語』のつかない」自分を端的に指しているだけなのであって

にっくさん自身にどうしろ、という話ではないのだと
私は受け取っています。

どうもしなくてよい、ではなく
どうもしていなくても、そこにただあるだけの端的が
我々にとっては大いなる功徳なのだ、と実証しなければならない理由がある、
ということだと思います。

ただ私も、先の動画にあるような提唱を直接受け取ったことはありません。
きっと、私の受け答えも、先の回答の老師方には笑止千万でしょう。
しかし同じような問題意識を持っている者同士、
私には分からなくても、にっくさんにはぜひ体現していただきたい。
そして皆さんの坐禅の体現が、めくるめく功徳になりますよう願って
回答申し上げます。
有難うございました。

                    南無釈迦牟尼仏 合掌

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有り難し
おきもち

吉井浩文
Buddhism. knowing what it actually i...
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何度も繰り返し見て聞いてみてください。

物足りないのではないかと思っているだけですよ。
耳はどんな音を聞いても物足りないなんて言わない。観察している自分もいないでしょう。
舌もそうです。美味しいとかまずいなんか言わず、間髪入れずそのものと一体となり味があるしかし飲み込むと味は残らない。
掴むものがないから、満足できる。
そして、なに不足ないものが目の前にある。こう言うものがあるのではないかと、想定しているからずれてしまうのです。
物足りなさはそこから来ている。ジブンの考える理想があるから、そんなものじゃないのですよ。特別なものではない。当たり前に目の前にあり、不足なく満たされきっていて、しかし、掴む必要もなく、観察する自分もない。それが自分がない様子、真理の様子でしょう。
心底何にもしなくていいのです。授かりっぱなし。自分から何かする必要がないし、やるだけ余計になるのです。

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有り難し
おきもち

禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺副住職。 悩みを吐き出す事で、ちょ...
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質問者からのお礼

吉井浩文様
ご丁寧なご回答をありがとうございます。

>観察を止めろ!などというのも結局、造作でしょう?
>「造作が起きる」事実。
>「造作が無い」のも事実。
>事実は事実なのだから、ある意味それで堂々としていられるでしょう?

このご指摘に、なるほどと思いました。
確かに、造作が起きるのも、起きないのも、事実だから変更できません。
どこまで行っても、ひたすら事実に触れているような気がしてきました。
糸口が見えてきた感じがします。非常にありがたいです。

邦元様 
ご回答ありがとうございました。
少なくとも、理屈の範囲では納得しました。
本当にわかるまでには、時間がかかりそうですが、
なんとなく分かったような気はします。

「坐禅について」問答一覧

アドラー心理学と禅

法律事務所を経営しています。 顧客も案件もたくさんあるのですが、儲からず忙しいばかり。儲からない案件もお金を取らないで受けてしまうからです。 結果、大量の仕事に追われ、催促の電話に怯え、無力感や罪悪感で死にたくなる毎日です。月に1~2回、本当に自殺しそうになって思いとどまるようなことが1年くらい続いててかなりツラいです。 そんなときに、ベストセラーになった「嫌われる勇気」(アドラー心理学の本)を読みました。そのなかに、 「自分がした善行に相手の配慮を期待するのは筋違い」 「受けた善行に返報しないことに罪悪感を覚えるのも筋違い」 「助けを求められてそれに応えないことに、罪悪感を覚えるのも筋違い」 「自分が何をすべきかは「自分の課題」であり、それを相手がどう感じてどう対応するかは「相手の課題」だから」 「自分の課題と相手の課題を混同してはいけない。相手の課題を勝手に自分の課題にするから苦しくなる」 というようなことが書かれてました。 自分は誰かの役に立つことは好きなのですが、そのことでお金を請求するのが苦手です。一方で、役に立つことをしてるのに相手から配慮して貰えないと苛立ったりします。また、何かを頼まれて断ることに罪悪感を覚えます。断ったら「嫌なヤツ」と思われるかもしれないという恐怖もあります。 アドラーの指摘するように、自分の課題と相手の課題を切り分け、「お金を請求して、支払うかどうかは相手の課題だから、気にせず請求すればいい」「相手の役に立つことをしても、それにどう応じるかは相手の課題だから、相手の配慮を期待するほうがおかしい」「頼まれ事を断ったとして、それをどう感じるかは相手の課題だから、どう思われようと気にすることはない」と考えれば確かに楽なんですが、お坊さん的にはこうした考え方ってどうなんでしょうか? そう考えると楽なのは分かるんですが、なんとなく腑に落ちないのです。 以前聞きかじった禅の思想(教え?)で、「一時の結果や他人の評価など気にしても仕方ない(どうせ本来無一物/諸行無常)」「自分は自分。他人は他人(主人公)」みたいなのがあった気がします。うろ覚えですが。 禅にも似ている考え方があるんじゃないかと思い質問してみました。 実は人に相談するのもとても苦手です。 ご回答頂ければとても嬉しいです。

有り難し有り難し 34
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