自分で死を選ぶことは絶対に悪いことですか?
ご無沙汰しております。
悩みというほどではありませんが、モヤモヤするので質問させていただきます。
まず、前提として、人間として生きている間に、できるだけいいこと(徳を積む?)をしなければならないと思います。学問を積んで本質を追求し気づいたことを伝えたり、ボランティアをして何かの役に立ったりすることが大事だと考えました。引きこもったり、ニートになったりしていても、何も考えたり感じたりしていないわけではなく、どうにかしたいともがいているはずで、その課題を解決した自分なりの答えを他の人に伝えることが大事だと気づきました。
しかし、絶対に自ら命を絶ってはならないということもないのではないかとも思っています。
なぜ、人は自殺したり、餓死(自殺に近いもの)したりしてはいけないのでしょうか?
これには、いろいろな状況があると思います。
(1)本当にお金がなく、食費や水道代が払えず、餓死する場合、公的な機関などから門前払いを受け、誰にも気づかれず、死んでいった場合。
亡くなった人の選択肢として、コンビニやスーパーの物を盗み、生きるという選択肢もあったはずです。(窃盗犯という前科はつきますが)。その人は法を犯さない範囲で、できる限りの手は尽くしたでしょうし、周りの人も役割は果たしたでしょう。そこから社会の人が学べば、いい方向へ変わっていくはずですが、批判するだけして代案を考えないのは無責任のような気がします。
「悲しい」と嘆くのではなく、修行の末に亡くなったと捉え、学びに変えていくことが大切ではと思います。
(2)認知症や脳疾患のため、おかしくなった時を恐れて自殺してしまう場合。
(3)治る見込みのない病気(末期ガン)で、一切の飲食を絶った場合。
(2)も(3)も、周りに迷惑をかけないという思いからです。
生きることができるなら、負のもの(借金やネガティブ感情)を残さず、いいものを残すよう努力することが大事だと思います。自分自身の遺体をどう処理してほしいか伝え、そのための費用まで用意できると、責任ある人生を全うできるかなと思います。
うまく表現できず、申し訳ありません。
どのように死ぬかと考え、残された人への影響を心理面や費用面など分析することは、どう生きるかに繋がることだと思います。
死後も、しばらくは他人に影響を与え続けるので、生き方は大事だと思います。
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
ごもっとも?もっともっと教
仏教の考え方では、前提から真逆なんです。
徳を積むとか修行するというと、もっと知識を得たり、もっと凄いことを理解して自分のものにしようという気がしてしまいます。それが逆だから、全てが逆に向かってしまうんです。
私の意識が何も知らなくとも、ご飯を食べれば自然と身体が作られ、調います。もっと吸収率の高い胃腸の使い方を知らなくとも、勝手に吸収してくれます。そこに真理が現れているんです。耳の開き方を知らなくても聞ける。瞳孔の開き方や閉じ方を知らなくても見える。そこに生命があるんです。修行とは、そういう生命力が生命力のまま生命することです。そこには何の課題もありません。目は問いません。耳は問いません。鼻も舌も身も問いません。でも過不足なく働き、生かそう生かそうとしています。ただ、頭が空気読まずに問いを吹っ掛けて勝手に成績表作ってるだけです。
考えてみて下さい。そもそもなぜ人は死ぬ以外のことを選べないほど追い詰められるのでしょうか?
「もっと生産性を高く」「もっと完璧なモラルで」「もっと人の役に立て」「もっと優秀になれ」「もっと夢を持て」「もっと頑張れ」
社会がそうやって「もっともっと」と際限なく要求するからです。その価値観そのものが人を追い詰めているということを認めないといけないんです。そう思って自死を願う方がたの問答を読んでみて下さい。本音の見える質問には「お金がない」「身体の自由が効かない」→「そんな私は…」が見え隠れしています。
逆なんですよ、転倒夢想。
なぜその逆がまかり通っているか?外敵がいるからです。競争相手が。それはある程度仕方のないことです。お釈迦さまでも戦争は無くせなかった。
しかし現代社会の闇は、本来、富国強兵のために『辛抱する』ことを、あたかも幸せになるキラキラの人生かのようにうそぶいていることです。それは、社会の病です。
残された人への影響…ワタシ、その言葉、嫌いです。なんか最期の最期まで過ち探しされてるみたいです。減点法ではなく、もっとステキな生き方を考えましょうよ。
坐禅してご覧なさい。坐禅はあなたに何も求めない。何も問わない。何も責めない。あなたの全てがオールオッケーです。究極の寛容です。そんな寛容さが社会に満ちれば、もっと他に道はいくらでもあることを自他共に認められる世になるでしょう。社会は厳選ではなく、寛容に向かった方が楽なんです。
絶対に悪いことではないとは思うものの
ひろし様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
仏教の自殺に対する態度は、釈尊の自殺への言行より、ある一端はうかがえることができるところがあります。
もっとも参考となる論考が下記となります。(但し、サーバーは2019.3までで終了)
「仏教は自殺を本当に禁じているのか?」
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/suicide_buddhism.html
拙見解としては、釈尊の自殺への対処において、やはり重視されたのは、自殺が、その者の業と輪廻にどう影響するのかどうかということで、悪業、悪い輪廻となる自殺は当然に避けるべきであるということが前提で、悪業、悪い輪廻にならないと、釈尊がご判断なさられた場合には、許容されたこともあった可能性はあるのではないだろうかとは存じます。
しかし、凡夫である我々が、その自殺は悪業になる、ならない、悪い輪廻に影響する、しないということまで判断することはやはり難しく、一切知者である釈尊であるからこそのところがございます。その点には注意が必要となります。
絶対に悪いことではないとは思うものの、いずれにせよ、自殺の動機、自殺の行為、自殺の結果というものが、無明(根本的な無知)、煩悩によるものであるのであれば、やはり、悪業になることは避けられないため、また、悪業かどうかの判断も、私たち凡夫では判断が難しいこともあるため、できれば、極力避けられるのであれば避けるべきであるというように、拙生は思うのであります。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
〉大慈様
ご回答、ありがとうございました。
私も楽に寛容な心を持とうとしていますが、未だ達成できていません。病気療養中で平穏に暮らしていますが、多忙になると寛容な心を持てなくなる幼すぎる自分が嫌いです。その気持ちを持ってしまうことも、自分に寛容でないことになると思いますが。
多数の価値観やある一つの価値観に縛られ、少数の人たちや弱者に多数のものを押し付けるのはよくありません。押し付けると、押し付けられた方は苦しくなるからです。そのように考えて行動しようとしているのですが、どうもできません。
ある組織に属していて、「嫌なら辞めろ」と言われることがあります。しかし、「人間社会は嫌だな」あるいは「自分なんて生きていてもな」って思い、人間社会を辞めるとなると、死しかありません。たいてい強者や立場の強いものが、弱者に「もっともっと」と要求したり、価値観を押し付けたりするのではないかと思います。強者も弱者も本質的には同じであるにも関わらず。それが、弱者の精神をおかしくし、ある人は犯罪を犯し、ある人は死を選び、ある人は病気になる。もちろん、例外はありますが、犯罪を犯したり、死を選んだり、病気になったりする人を見ると、社会が寛容になればなと思いますが、不寛容さに流されてしまう自分もいます。
「残された人への影響」というと、悪い影響を考えがちですが、良い影響もあります。でも、そもそも影響に良い悪いはなく、死者の生き方の良い悪いを決めているのは、生きている人だと思います。たとえ、人間社会で悪いことや周りを恐怖に陥れることをやっていて、亡くなった後に「あの人が死んで良かった」と思われる場合でも、その人の苦労や痛みを想像したり、良い方向に考えたりすることができるのは、生きている人なんだと思います。
今は、こういう人間もいるよねって思えます。しかし、仕事となると忙しいとき、寛容になれなかったりします。その時の私が嫌いです。
人間は矛盾を抱えて生きるのですね。
〉川口 英俊様
ご回答、ありがとうございました。
私の中で納得できました。
私の問いとはずれてしまいますが。
同様に考えると、ほぼ全ての人は罪人に死刑を執行することはできないのではないかと思います。
科学の進歩についても、人間の開発力では現実化することは可能ですが、コントロールできるかどうかは別問題です。クローン技術などのように、責任をとることができないものは開発すべきでないように思います。