人が利己的な存在であるのならば
あらゆる人間が皆利己的な存在であるのならば、あらゆる善行と思われてきたものはその実錯覚に過ぎず、人間は皆偽善と悪に満ちた存在なのではないでしょうか。
そして感情で物事を判断する事が悪しきものならば、機械や計算機のような論理的に判断する事が善きものではないでしょうか。
自分は機械のような、無機質で、感情などというものがなく、自分すらもない存在になりたいのです。
それすらも感情で判断している事を知っていながらも、それでもそうなりたいのです。
それ故か、自分はこうも苦しいのです。
それは物事を自らの都合に立てて見て、それが実現しないから苦しくなっているのでしょうか。
或いは実現したとしても、苦しい事に変わりはないのでしょうか。
いっそのこと、全てに諦めをつければそれで済むかもしれませんが…。
考えすぎ
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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私からの3つの回答
こんにちは。亀山純史と申します。
〈私たちは利己的な存在か〉
まず、「利己」の定義を確認したいと思います。辞書には、「自分の利益だけを考え、他人のことは顧みないこと。」「自分の利益だけを考えること。自分一人だけの利益を考え他人のことはかえりみないこと。」と書かれています。確かに私たちは、自分の利益を考えて行動します。私たちが自分の命を生きていくためには、他の命のおかげによらなければなりません。しかしそれは、他の命を顧みないことではありません。食事の前後に言う「いただきます。」「ごちそうさまでした。」とは、そういった他の命への感謝のことばであり、その行為に偽善はありません。
〈感情で物事を判断することは悪か〉
次に、感情で物事を判断することが悪しきものとは、必ずしも言えないでしょう。論理的に正しく、正論と言えるものが、必ずしも優れているわけではありません。それは、私たちには感情を司る「心」があるからなのです。たとえば、グリーフケアにおいて、いかにこの世は無常であり、人の命の終わりはいつ訪れるのかわからない、と説いても、それだけでは、私たちの心の救いにはつながりません。ときに私たちは相手の気持ちに寄り添うなど、感情を用いて、人の「心」に働きかけることが重要になるのです。
〈なぜ、私たちは生きることに苦しいのか〉
目の前にある現象には、幸・不幸という属性はないのです。私たちがそれらのものに、幸・不幸という属性を付けるので、苦しくなるのです。しかし、もっと大切なことは、そのような属性に固執しない、という姿勢でしょう。私たちは、日々、物事を判断して生きています。私たちは、物事を判断せずして生きていくことはできないのです。そのとき、その判断に一方的な見方だけを押し付けずに、コインに表があれば裏があるように、別な方向からの見方をしていくこと、そうすることが大切なのだと思っています。
以上が私からの回答になります。参考になさってみてください。
「あらゆる人間が皆利己的な存在」→全てがそうではありません。
「感情で物事を判断する事が悪しきもの」→全てがそうではありません。
「それは物事を自らの都合に立てて見て、それが実現しないから苦しくなっているのでしょうか。」→その通りです。
それを諸法無我と言います。
全ての物事は自分の思い通りにならない、というこの世の理です。それを受け入れることができない時に苦しみを生むのです。
「いっそのこと、全てに諦めをつければそれで済むかもしれませんが…。」→「諦める」という意味を間違えております。仏教的には「諦める」とは「諦かにする」現代語では「明らかにする」という意味です。
何を明らかにするのか、それは例えばあなたの目標です。そして、その目標を達成するために必要な様々な要因。さらには、その様々な要因を得るための様々な要因。さらには…。
その要因をあなたがひとつずつ掴んでいく。
そうすれば自ずから結果としての目標に達することができるのです。また、残念ながら目標に達することができなくても、努力しただけ近づくことができるのです。人としても努力しただけ成長するのです。