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足るを知る

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私の好きな歌に絢香のにじいろと言う歌があります。その歌のフレーズになくしたもの数えて心閉ざすよりもあるものを数えた方が瞳輝きだすと言う言葉があります。

私自身統合失調症で金無し彼女無し車無し、あるものは両親と愛犬と築五十年の木造モルタルの我が家だけです。知人の障害者に言わせると両親が生きていて羨ましいとか。言われます。

私は小さいころからませた子供で結婚だけは絶対しようと思っていました。しかし十六歳で統合失調症と言う悪魔に魅入られてしまいました。

そして大学にもぜひ進学しようと思っていました。しかしことはそうは運びませんでした。高校は中退して通信制の高校に五年間通い高卒の資格を取って専門学校で福祉の勉強をして介護士の資格を取りました。

しかし統合失調症は治らず結局就職はせず社会にも出ませんでした。それが二十五歳の頃です。それから病院の精神科のデイケアに行ったり障害者の福祉作業所で働いたりしました。そして今は五十二歳です。

私の人生は欠けているのでしょうか。人並みに就職も結婚もせず。障害年金で細々と暮らす。多分死ぬまで女性と愛し合うこともないでしょう。

多分満足とは程遠い人生ですがこれも運命なのでしょうか。仏教では因果応報を説きますが運命に関してはどのようの説かれているのでしょうか。

学校で教わった人生観は夢と希望を持って只管努力しなさいでした。しかし努力しても乗り越えられない壁と言うものもあると思います。

残りの人生どんな運命が待っているかはわかりません。しかしこれでよかったと思って人生を総括できれば満足です。足るを知る。そうすれば統合失調症と言う運命を受け入れられると思うのですが。

変えられるものは変えられますが変えられないものは粛々として受け入れる、今の私に必要なのは運命を受け入れる潔さだと思うのですが。仏教は運命をどのように説いているのか。お答えください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ROCK ME BABY 同じもの同じこと同じ時は無いと知る

https://www.youtube.com/watch?v=ctQOziJeYoA
にじいろいい曲ですね。ギターで弾いたことがあります。(*´Д`)🎸
私が弾くと別物になっちゃいますが。
さて、あなたの人生をあなた以外がカバーするとします。その人はあなたの身を借りどんな人生を歩むか考えてみましょう。
あなたの話を聞いたならばそれ以外の人生を歩もうとするでしょう。
あなたはメロディー通りの人生を歩もうとしてきたのではないでしょうか。
人生はもっと自由なものです。カラオケマシンで高得点取るわけじゃないのです。自分流に生きていいのです。
運命や宿命というものはありません。
自分で生き方を変えられるのですから。
人生を変える簡単な方法は反応を変えることです。
事が起こった後の自分の反応が毎回同じ人は人生が毎回同じになります。
あなた自身が切望することです。
心の自由さ。
自分にしかできないことをやるのです。
ちなみに🎸の神様たちは何が凄いのか。
原形をとどめていない程に本人ものに仕上げているのです。
中島みゆきさんの「糸」という曲は有名でいろんな人がカバーしますが大体スベっています。
今年はクイーンのボヘミアンラプソディやWE WILL ROCK YOUが再ブレイクしました。
ジミヘンがROCK ME MABYをカバーするとこんな感じになります。原型、とどめていません。
https://www.youtube.com/watch?v=jo2Vpjaf5Ks
本来のロックはジャズと同じで二度と同じプレイはありません。
今の日本のロックは教科書通り。ロックとは教科書通りではありません。
人生もこれだという決まった生き方はありません。
毎日同じものを作ってもまるで違うものなのです。
まるで違う日なのです。まるで違う心境なのです。まるで違う出会いなのです。
同じ所にとどまろうとする自分の習慣的・慣習的意識にこそ強く👀意識を向けることです。
それがあなたを永遠にマンネリ人生を歩ませている犯人です。
今日は今日でしかないから今日にしかできないことを今やるのです。いま、同じ気持ちでやろうとしても、今日もいつもと同じようにしかならんでしょう。
他人の人生からインスピレーションを受けても、同じ人生・同じプレイをしてもダメです。
自分の今日の今の最新の生き方を今から新たにするのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

私の質問にお答え有難うございます。ロックやジャズには同じプレイがないのですね。日々新たな気持ちで人生に向かう。グッドなことバッドなこと色々ありますがそれに対する対処の仕方には自分が試されます。今考えている私のしたいことは釣りに行くことです。もし私が自由なら毎日の掃除や買い物決まりきった日常をボイコットして海に行って釣り糸を垂れる。子供の頃から釣りに行く機会はあったのですがあまり大漁と言う経験はありませんでした。自分のメロディーを奏でたいです。

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