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感情はなきゃいけませんか

回答数回答 3
有り難し有り難し 65

変なこと書きますが許してください。

悲しく感じたことは何故悲しくて、苦しく感じたことは何故苦しいと思うのですか?楽しいとはなんですか?

「なに言ってんのこいつ?」「そんなん当たり前じゃん!」「ちょっと意味わかんない」って自分でも思ってるんですが本当にそれこそ子供の頃から気になっています。

答えはないのかもしれないですが、どうかお話を聞かせてください。

気持ち悪くてごめんなさい。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

懐かしい悩み

私は色弱です。他人と色が違って見えるのですが、色覚異常とも言います。こんな感じ↓
http://karapaia.livedoor.biz/archives/52098735.html

中学生の時、細い赤線は黒と見分けが付きにくくて目立たないので、大事なとこをノート取る時には青のボールペンを愛用していました。そしたらですね、3年生の時、3年間青だと思って使っていたペンが紫だと発覚しました。周りにえらくバカにされましたが、私は言ってやりました。「青と紫って薄いか濃いかの違いだろう?お前ら何言ってんだ???」そしたらさらにバカにされましたorz

高校生の時に担任の先生に色覚異常についての本をもらいましてね、それで勉強して色々考えました。

「俺が青に見えていたペンは実は紫だった。でも、目をつぶって触れば何も変わらないペンだ。じゃあ見るって何だ?
人は年を取るとだんだん黄色がかって見えてくるらしい。ってことはみんなそれぞれ違って見えてくるわけだ。そもそも生まれた時から一人一人、目にも脳にも個人差があるのだから、最初から完全に同じに見えてるわけじゃない。ただ特に大きく違って見える人だけが色覚異常と診断されているだけ。
みんな違って見えてるなら、見るって何だ?見えてる世界って何だ?みんな違って見えてるのに、目を閉じてもそこに有るんだぞ?見えるって何よ?」

同系統の悩みかなと思いました。気持ち悪いなんて思いませんよ、大丈夫。

さて、お釈迦さまはそれについてこうコメントしています。

「あなたに毒矢が刺さったとして、その毒は何だ?矢の素材は?あなたの血液型は?名前と住所と緊急連絡先は?保証人は?それらが分かるまで手当はしません!なんて言い出せば、んなこと言ってるうちに毒が回って死んでしまうでしょう。グダグダ言ってないでさっさと矢を抜かねばなりません。それと同じように、心に迷いがあっても何でもかんでも考えればいいってもんじゃありません。さぁ皆さん、考えてないで修行しますよ。」

ナルホドなぁと思いませんか?高校生だった私はナルホドそういうモンかと感じました。
何で悲しくて何で苦しいか…お釈迦さまが考えてないで修行しろっておっしゃったんだから、今考えなくてもいいんじゃないでしょうかね。仮に感情はあるべきじゃない!って結論になったからって、無くせるもんでもありませんし。

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有り難し
おきもち

曹洞宗副住職。タイ系上座部仏教短期出家(捨戒済み)。仮面系お坊さんYouT...
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唯名論

 おお、いい疑問ですね。これは、言葉というものの本質に迫る問題です。
「悲しく感じたことは何故悲しい」…これ、「言葉とは何か」なのです。「悲しい」を例に取りましょう。

男「悪い、約束してたけど別の用が入ったわ。だから今回はキャンセルね」
女「え!そんな…前から約束していたのに! わたし××」←感情を表す言葉が入ります

さて、「××」に入るのは何でしょうか。「悲しい」?入りますね。でも「怒った」でもよい。
 人によっては「悲しさと怒りが混じっている」とか「何も感じない。あっそ」かも知れません。つまり、同じ文脈でも、「悲しい」と感じてもよし、「怒った」も良しなのです。そこは本人が選んでいるのです、余り意識せずに。
 つまり人は、環境から何らかの情報なり状況なりを得て、自分の中に「何か」が起こった時、それに名前を付けて表現します。その名前があって、初めて「…という感情」が捉えられるのです。「悲しいから泣く」のではなく、「涙が出ていることで、自分が悲しんでいることに気づく。自分の感情に”悲しい”という言葉をあてる」のです。
 そして、そのためには”悲しい”という言葉と、それに似合う文脈を予め学んでおく必要があります。その経験がないと、自分の感情に対応する言葉がなく、「涙が流れている」という自分の反応は同じでも、ただそれだけです。
 ですから、最初の質問に戻れば「悲しいと自分で名前を付けたから、悲しい」ということになります。

 そして、メインタイトル「感情はなきゃいけませんか」確かに突飛な質問です。これを尋ねるということは、何か他人との間で、「同じ言葉で表されるところの感情」に食い違い・誤解があったのでしょうか。
 私の答えは、「(名前をつけたものとしての)感情は必要ではない。でも、それ(受けているもの)自体は嫌も応もなく起きている」というところでしょうか。ただ、付け加えて「感情を的確に、細やかに表現できた方が、人生豊かになるとは思います」とお伝えしたい。国語の問題で、いつも「この時の、主人公の気持ちとして最も近いものを選びなさい」ってありますね。これは、単に知識を問うているよりも、文中のサインから起こっていそうな感情に名前を充ててごらんなさいというものです。「ヤバイ」一言で全ての感情を表現するより、いろんな言葉を使えた方が、人生豊かになると思いませんか?

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有り難し
おきもち

一般大学(一般的でもないが…)から大正大学の史学コースへ。そののちお寺。坊...
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死にたくない執着が、苦しみの鞭をふるう

心に執着があると、心は磁石のようになります。
磁石のS極とS極が向かいあったら、反発が生じます。これが、悲しみを含む怒り系感情です。
磁石のS極とN極が向かいあったら、引きつけあいます。これが、欲、悦楽系の感情です。

なぜ悲しみや楽しみが起きるのか、その鍵は、執着です。
執着の親玉は、生きていたいという、生への執着です。
生きていたいという執着心は、生き物すべてが先天的に持っているものです。
生きていたい、死にたくないから、さまざまな刺激に反応して動く必要が生じます。
身体を守りたいから。
一方で、みんな、動きたくない怠けも持っています。
生きるためには動く必要がある、でも本当は動きたくない、こういう生き物がもつ矛盾も苦しみの原因でしょう。
血中の酸素がなくなってきたら、そのままでは死ぬ。しかし、本当は呼吸するのもめんどくさい。
そんななまくらな身体に呼吸させるには、苦しみを感じさせないといけません。
生きたいという執着心が核となって、その核が死にたくないために苦しみを作っているのです。
悟って執着が完全になくなれば、苦しみもなくなります。
苦しみから開放される、つまり、生き物であることから卒業できるのです。
日本的な表現では、これを成仏と言います。
苦しみをくりかえす執着の生から解脱するには、仏教が役立つのです。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四...
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質問者からのお礼

お二人のお話に「そうか、そう考えてもいいんだ」とおもいました。少しだけ楽になった気がします、ありがとうございました。

余計なことですが、色弱の見えかた初めて見ました。自分の見えかたとは違って、それでも美しいと思いました。ありがとうございました

悲しいことを悲しいと伝えられるから本当は私は言葉を知っていて幸運だったんですね。

執着…なるほどとおもいました。
確かにそうですよね。一時期なにも感じない時期がありました。そのときはなににも執着してなかったようにおもいます。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ