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統合失調症でもお坊さんになれますか?

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有り難し有り難し 56

私は現在、統合失調症という持病を持っています。服薬をして、病状は安定しています。

病気を持った生活の中で、仏の道に進みたいという希望が生まれました。

統合失調症を持って、お坊さんになるのは可能なのでしょうか?

過去に、統合失調症を持って、お坊さんになった方などいたら、お教え願いたいです。

どうぞよろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その病をも克服する道が僧の道

まず実際に僧侶の世界に身を投じてみることで目が覚めるでしょう。
ひょえーーーーーー!!!!
だと思いますよ。
私は昔、お坊さんの世界に入ればきっと救われる苦しみから抜け出せると思いました。
ひょえーーーーーーーーーーー!!!!
(想像にお任せします)
そんな中でやりきる覚悟があればどんな宗派でも、体験コースがあるから自分で探してください。
(え?教えてくれないのかよ?)
そりゃソーです。僧だけに。僧侶は全部自分でやらんといかん。人が教えちゃくれん。
自分で求める。
あなたに一番必要なのはそこです。
本当に僧侶の世界は甘くない。
それでもやり抜く覚悟を持って入ってくればよいでしょう。
ぶっちゃけ、おのれが病んでいては人を導けないです。
だからこそ、すがた形の上で僧侶になることよりも、もっと大事なことがあるでしょう。
あなたがお釈迦様だったとします。お釈迦様も出家前は病んでいました。
病んでいる状態で「人生とはこう生きるべきだよ」と説いても説得力がありません。
お坊さんとは「お坊さんという姿形になること」ではないと私は思うのです。
お坊さんになりたい。立派な志です。ならばこそ、もっと大切なことがある。
まず、自己を明らかにする。
自分が自分の思いに振り回されんようになる。
そういう心を得ることです。
そうでなければ、人を導けないからです。立派なお坊さんになってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

佛弟子となり仏門に入るは手荷物は佛への信心のみ

なれないことはありません、ただし宗派によって変わると思いますが「一定の特に厳しい期間」があります。
それを経て僧侶は僧侶としてのスタートラインに立ちます。

参考までに我が派では10日間の「加行」を終えることが条件です
真冬の真っ暗な時間帯に雪が降ってようが雨が降ってようが風が強かろうが褌とハチマキのみで外に出て冷え切った水を頭から毎日複数回被るのもその中のカリキュラムの1つです。
決して生易しくはありません、ですがそれでもなりたいと思うならばお近くのお寺に弟子にとっていただけるか頭を下げるのも1つの手段です、ただし何軒も断られることは覚悟なさってください。

我が派のことではなくて申し訳ありませんがネットで調べて一番分かりやすそうだったのを載せておきます、参考になさってください
http://www.higan.net/bizplan/2011/04/post-10.html

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有り難し
おきもち

質問者からのお礼

回答ありがとうございました。
困難ではありますが、不可能ではない、との回答、とても勇気づけられました。
このまま仏の道に精進していく所存です。
これも何かの縁ですので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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