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昔飼っていた犬の話です

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私が小学生だった頃の話です。
私の家庭は母親がうつ病で、父親と、5歳上の兄が必死になって毎日毎日自殺をしようとする母親を止めたり、大声をあげて泣く母親を宥めたりしていました。(今は離婚し、うつ病も治りました)

そんな頃に飼っていたチワワを、大切にしてあげられなかったことが、私の人生の中で1番の懺悔したいことです。
父親は犬アレルギーでしたが、母親がわたしのためにと買って来てくれた犬でした。
ですが、1番家庭を支えてくれていた父親が、家の中で飼うことを許してくれず、雨の日も雪の日も、夏の暑い日もずっとチワワは外にいました。
私は散歩に行かせるのをサボったこともありました。
ある時、チワワのお腹を触ると、小さなしこりみたいなのが出来ていました。小さいながらにきっと病気だろうと、心配したけれど、病院に連れて行こうと両親には言えずに寿命より短い年齢でこの世から去ってしまいました。

チワワが死んじゃった日、そのチワワは私のことを待っていてくれたようでした。
学校から帰ってくる私のことを一目見てから、朝になったら倒れていました。

あの頃のわたしは、チワワのことを何にも知らなかったし、可愛がることを何にも分かっていませんでした。何にもしてあげられませんでした。
なのに、私がイライラした時吠えているチワワにうるさいと言ったり、先ほども言いましたが散歩に行かなかったり、最低なことをしました。

私がそのチワワを殺したも同然ですよね。
今でも犬小屋は残っていて玄関には引っ掻いた跡があります。
見るたびに心が辛くて、戻ってきて欲しいと思います。今だったら私は誰よりも可愛がってあげられます。

チワワの気持ちを考えてあげられなかった、私が私を生きることに精一杯だったっていうのが、今の私には分かるので、余計辛いです。
どれだけ後悔してもしきれないです。

チワワは私のことどう思ってると思いますか?

私はチワワのことをこれからもずっと忘れないと思います。

罪を償うにはそういう自己嫌悪を忘れないことが1番ですか?

私は今はあの頃よりずっと犬が好きです。
他の犬を可愛がれば可愛がるほどチワワの事が浮かびます。

自分でもどうしたいのかよく分からないほど、私のせいで死んじゃったチワワのことを悔やんでいます。お坊さんは私が最低な人間だと思いますか?

もし宜しければお話を聞かせてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたを好きだったチワワがあなたが今も苦しむことは望まない

🐶🐕🐩
「アオンアオン…ウォンウォン…」
以下 イヌ語→日本語訳
直接手を下して殺してしまったわけではないのですから気持ちを注ぎ過ぎないことだワン。
同情や憐みも過ぎれば害になるという事を覚えておきましょう。
いくら愛する気持ちが強いからと言っても、マフラーで愛する人の首を締めたら死んでしまいますワン。」

愛も同情や憐みも注ぎ過ぎれば、自分がダメージを受けるのですね。
ウチにも私が可愛がっていたドンという雑種の犬がいましてねぇ。聞くも涙、語も涙ですわい。
(T_T)
小さいころ、誰かがお寺に箱ごと五匹ぐらい捨てて行った人がいましてね。
坐禅会で飼ってくれる人に引き取ってもらいました。
やはり、目の見えない子は苦労がかかるという事もあって、ドンは誰ももらってくれずにウチで飼うことになりました。生まれながらに目が開かない、今でこそ医療が進んでいるから目を開くこともできたでしょうか。ドンが頼るのは鼻しかありません。散歩に連れて行ってあげる度にお寺の門の段差の所でいっつも鼻をぶつけてしまうドンを見る度に不憫でなりませんでした、オイオイ(泣)
あとは聴くもナイアガラ、語るも華厳の滝で涙が止まりませんのでここまでにしておきます。
亡くなったワンちゃんに尊厳を認めてあげることです。

人であっても動物であっても、あなたとかかわりを持ってくれたあなたにとっては大事なお友達。そのお友達への最高の恩返しは、そのお友達が亡くなってしまった後であってもそのお友達を自分の人生の「導きの師」「導いてくれる存在」としておまつりすることです。
同格ではなく、敬う存在としてまつるのです。
それによってあなたが人間としての向上心を持ち続けることができます。
一緒に人生を歩むことができます。
人生で大切なのは何をするにもこちら側の心のあり方です。
悲しい別れがあったならばこそ、暗く沈んでいる自分を明るい方へその子が導いてくれるでしょう。あなたのことを大好きだったワンちゃんがあなたが沈んでいるのを喜ぶことはないと思います。何となくで構いません、散歩に行ったときのリードの感覚を思い出して、自分を前向きに明るい方向へ導いてあげてください。
仏教では菩提心と言います。
自分を高い心へ導く心です。悩んでいる心をもっと成長させて良くしたいと思う気持ち。
散歩した時のリードの感覚にそこを感じ取ってください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

偶然にも隣の御宅の犬の名前がドンで、少し驚きました。同情や憐れみ、愛も過ぎれば害になると、しっかり自分に言い聞かせることにします。
ふとした時にまた生まれる罪悪感は、チワワと遊んだ思い出と共に背負って一緒に生きていこうと思います。
ありがとうございました。

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