hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

大切な家族を失ってから

回答数回答 3
有り難し有り難し 66

今年でおじいちゃんが亡くなって3年が経ちます。
周りの姉妹や親族はおじいちゃんの死を受け入れ普通に生活をしているんですが私はどうしてもおじいちゃんの死を受け入れる事が出来ません。
おじいちゃんの家に行ったらお帰りって出迎えてくれるんじゃないか
もしくは病院に行ったら会えるんじゃないかって思ってしまいます。
私はこのままで良いのでしょうか?教えて下さい。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

いますがごとくに

おつらいことと存じます。

亡くなった人は帰っては来ません。しかし、
亡くなった人と結んだ沢山のふれあいの糸、わたしはそれを
仏教の言葉にある「縁」とよんでいますが、そうした縁は、
目に見えぬところでしっかりとむすばれているんだと
思うのです。

わたしの祖父はすでに30年ほど前になくなっていますが、
いまも祖父のはなしを沢山の方から聞きます。
変わった祖父であり、お坊さんでしたが、よくお葬式で
「かーーーーつ!」と一喝を吐くと、いっしょに入れ歯を
毎回とばしていたような方です。
そんな祖父を多くの檀家さんが「忘れられない」と言います。

それは、ひとりひとりに祖父が「寄り添って」いたからです。
悲しみにも、よろこびにも寄り添ったのがわたしの祖父でした。
火葬場にいく道の途中で、結婚式の列をみかけ、
お坊さんの姿でその結婚式のご夫婦に「ばんざーい!」と
声を掛けるような人でした。
その御夫婦はのちにうちの檀家さんになりましたが、
なみだがあふれるほどうれしかったと言っています。
また、そのときのお葬式のご遺族も、「あれはわすれらんないな(笑)」と
うれしそうに話されました。
祖父はいまも現在進行形で、わたし以上に檀家さんたちの
こころに寄り添っているんだと、有難く感じております。

そういう方だからこそ、いまもわたしは「いますがごとく」に、
祖父のはなしをみなさんに致します。
姿は見えないかもしれません。直接話せることも出来ません。
でも、祖父はいまもわたしにも寄り添って、わたしを導いています。
檀家さんへの接し方。お坊さんとしての生き方をいまもありありと
伝えてくれています。

あなたにとってのおじい様もまた同じだと心得ます。
あなたのように、誰かをこころの底から思いやれる、そのこころは
間違いなく、あなたのおじい様から受け継がれたものです。

あなたがそんなおじい様のこころを繋いで生きて行く、そこに
おじい様の願いがあります。
あなたが幸せに。あなたが安らかに。健やかに生きてくれるように。
あなたのおじい様もまた、あなたに寄り添っています。

さみしい思いはこれからもあるかもしれません。それもまた
おじい様への大切な「おもいのこもったこころ」です。
そのこころも抱いて、日々を歩んで頂けたらと存じます。

あなたに幸あれ、さちあれ。合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

おじいちゃんと共にあるのです

あなたとおじいちゃんは一緒にいます。
一緒にいると言ってもあなたがおじいちゃんなわけではありませんですぢゃ。(-。-;)y-゜゜゜
あなたの中にあなたと関わってくれたおじいちゃんがちゃんといる、これからも見守ってくれている、という事です。
おじいちゃんがあなたにちゃんと影響力として、守り仏として、一緒にあり続けています。
本当です。
何故ならあなたにおじいちゃんを想う気持ちがあるから。
これはどういうことかというと、
出家した知人の坊さんの話なのですが、その人はおばあちゃんにとてもかわいがってもらえたそうです。
ある時、非行グループと一緒に行動していて悪いことを沢山したそうです。
その時「婆ちゃんがみてたらなんて言うだろうか」と急にゾワッと思い立ったそうです。
あなたもきっとおじいちゃんにかわいがってもらえたと思います。羨ましく思います。
私はおじいちゃんという存在をあまりよく知らないので。
読み終えたら、おじいちゃんに手を合わせて感謝してください。
「おじいちゃん、これからも私を見守っていてください」と。
その姿をご両親や家族がみるとお父さんお母さんもさらに手を合わせる気持ちがすこしづつ沸くでしょう。そして、おじいちゃんが家族を相和してくれるはずです。
もしケンカした時はあなたの中のおじいちゃんを思い出してみんなにおじいちゃんに代わって大事なことを伝えてあげてください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

心は自然にまかせましょう。

こんにちわ。拝見いたしました。

私の経験ですがこういう相談は多いです。ですからあなた一人が変なのではないかと思う必要はありません。人間は機械ではありませんので「亡くなりました。はいそうですか」というわけにはいきません。同じ家族であっても付き合いの長さ、深さ、関係性はそれぞれなのです。「受け入れる」というのはその時が来れば自然と行われるものだと思います。ですから受け入れないといけないという思いを持つことはないと思います。

人が亡くなっても関係性が消えるわけではありません。亡き人とも生きている人とも一緒に人生を歩むのが仏教の道だと私は思います。姿は変われども共に生きていると考えてみてはいかがでしょうか。

あなたは人のことを思うという大切な心をお持ちです。その心はおじいさまが育んでくださったのでしょう。どうぞそのお心を大切になさればあなたを導いてくださることと思います。あなたの中のおじいちゃんが喜ぶ顔を思う浮かべ、おじいちゃんが喜んでくれるようなあなた自身の生き方をされることが大切だと思います。

合掌

{{count}}
有り難し
おきもち

御縁があって一般人からお坊さんになりました。現在は小さなお寺の住職をさせていただいております。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ