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彼氏の過去を受け入れられない

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有り難し有り難し 18

タイトルの通りです。
彼氏の過去で、とても大切にしていた女性がいたようです。付き合い始めた時から、そういうを話をちゃんとしてくれました。
まだ交際して日は浅いのですが、彼氏の過去や周りにいる女性に嫉妬してしまいます。彼氏は友達が多い人なんです。人との縁を大切にする人。

けど私は全くの真逆。大切にしたくても、いつも壊してしまう。友達が欲しいのに、作り方がわからない。相手を信じられない。ただ寂しいから、相手に寄り添ってる、依存してる気がします。

彼氏は優しい嘘をつきます。
そして傷つきやすい。私は、過去の女性や、周りの女性より、誰よりも愛されたいって、特別になりたいって思うけど、私は彼氏のように経験が少ない。交際期間も短い。友達も少ない。
愛されてない。

彼氏の前の彼女とのやりとりを知ってしまった。結婚歴もある彼氏。壁が大きい。壊してしまいたいです。けど、別れを告げました。

こんな素敵な彼氏を、私は愛せないと思ったんです。尽くしてしまう。そして見返りを求めている自分がいます。話す度に安心させてくれる。私は醜く、心が荒んでいます。彼氏の心が綺麗すぎて。どうしたら、人を愛せるんでしょうか?この先も同じことを繰り返して、幸せへの道を自分から壊してしまう気がします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「わたくし」を先立てた人間関係は友情も恋愛も逃げる

多分、あなたはあなたより自分がデシャバリさんなのでしょう。
そのデシャバリな「ひょっこりはん(仮名)」があなたの一番の苦しみの元。
自分を評価するにも、相手に対する気持ちも、元カノに嫉妬する気持ちも、ぜーーーんぶ「ひょっこりはん」です。自分の「我・アタシ・エゴ」です。分かりづらいので人格化すると、あなたの中に常に先立つ「あなた」よりもデシャバリさんがいるのです。
あなたは本当はもっと素直でイイ子ちゃんなのでしょうが、あなたというスマホに「アタシアプリ」が起動しちゃうことがあるのです。その「アタシ」アプリが起動すると、それが常に画面のセンターから何から牛耳っていて、OFFにするやり方もよくわからないから「引っ込み」がつかない。アンインストールが一番いいのでしょうが、起動させ無くするしか方法がないのが人間です。その「わたくしアプリ」「自分アプリ」「アタシアプリ」が起動していない時の人間はとっても安らかで静かなのです。誰であっても度量が広く、相手に元カノがいようがフレディ・マーキュリーのように元カレがいようが、寛大な心になって問題なくなるのです。
そもそも、嫉妬とかやきもちって、相手を自分のものにしたい「アタシ」のジコチューな気持ちです。人生そりゃジコチューではうまくいきませんって。いくら乃木坂が「ジコチューでいこう」と歌っていても仏教的にも社会的にもジコチュー過ぎるのは人間のモラルに反しますし、一番本人が苦しみますわい。
自己中で苦しむのはいいことです。
それで本当にコリゴリになると良いのです。
それを知らないと本当一生わがままちゃんになって自分も周りもしんどいだけ。
カンタンに言うと自分の思い通りにならんとすぐ怒る人間になる。恨みがましい人間になる。他人が思い通りにならんと支配的になるのです。我やエゴの炎は酷くなるとサイコパスみたいになっちゃうのです。だからこそ、相手を征服支配しようとする気持ちを鎮めて、恋から愛の気持ちに切り替わって彼から「♡」されるためにも、あなたがエゴという恋レベルを捨てて、自身の彼に対する「ハートちゃん」を愛のレベルに高めるべきです。
愛する気持ちが自分中心であると、愛のマフラーで相手の首を絞めるのです。それは恋。己意
。どこまでいっても自分愛の延長線上。相手を愛する気持ちが自分自分しなくなると、あなたが相手からも愛されるようになるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます!
恨みかけていました。そんな風に人を憎んでも、自分が辛いし、周りも幸せになれないと思っています。
彼とはなるべく距離を置いて、客観的に自分を見つめ直します。愛するって難しいし、私はよくわかりません。だから愛されたいって求めてばかりです。本当に自分中心、アタシアプリが起動してますね。少しずつ、学んでいけたらな、と思います。ありがとうございました。

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