領国経営
常々自分は身体という車に乗せて貰っているだけに過ぎない雇われ領主みたいなものだと思ってしまいます。
勿論、織田信長みたいなカリスマ性の有る領主ではありません。しかしこの身体にどうにか天寿を全うさせてやりたいと考えては居るのですが、身体のある部分だけに病が起こりそれを取り除くのもやむなしと思われる時、しかし当然その取り去られる部分の身体にも何らかの存在意義や権利がある筈なのにそれを無碍に踏みにじって裁断を下して良いものかどうか悩んでいるのです。
自分としては、命に関わったりする場合は身体の他の部分を巻き込むことは流石に出来ないのでただちに処断しなければならないと思うのですが、そうではなくて不便ではあるけれど命を危険にさらす程でも無く付き合っていくことが可能なら、生かしてやりたい。
けれども幾らかの薬が必要で代謝などで他の臓器にご負担をお願いしなければならないかも知れない。そう考えると他の臓器から不満の声が上がらないとも言い切れない訳でして・・・。しがない領主としてそんな悩みが尽きない訳でありますが、お坊さん国の先輩領主様はどの様に思いますでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
その病になった一部は自ら病であることをあなたに伝えることで、体全体の健康促進の必要性を伝えているのではないでしょうか。
例えば癌であれば、免疫力の低下を伝えているのかもしれません。
例えば発熱であれば、インフルエンザによる感染を伝えているのかもしれません。
もしそうなら、体全体を維持するために必要なら、一部を除くことも必要となるでしょう。
そしてそれだけでなく、その一部が望んだ体全体の健康への願いをしっかり受け止め、禁煙禁酒さらには適量の食事と運動を維持して生活習慣の改善を図り、健康を維持することが、一部を排除した側の義務だと思います。
その一部とお別れする時は、今までありがとうと言ってあげたいですね。
細胞一つずつが一匹ずつの単細胞生物だったら
生物の概念を、もしも、細胞一つにつき一つの命がある、一匹一匹ずつの単細胞生物が集まって肉体全体のチームを作っていると考えてもよいですね。
その細胞一つずつを領民と考えるなら、私達「意識」は、民を治める領主、リーダー役なのかもしれない。
いや、「私」(意識)は細胞ではないのだから、「私」(意識)は、国の法律みたいなソフトウェアにすぎないかもしれません。
で、国を治める立場になったとき、国全体の存続のためには、国の一部、民の一部を犠牲にすべきなのか、また、犠牲にしても良いのかどうかが問題ですね。
仏教では、動物の個体を殺すのは「殺生」ですが、
細胞一つ一つを殺すことまでは「殺生」と考えないと思います。
しかし、怒りの煩悩は良くないので、たった一個の細胞相手でも、憎しみや苛立ちで殺すのは悪です。
質問者からのお礼
願誉浄史様、こんばんわ。
願誉浄史様の領国経営は順調でありましょうか?
「たった一個の細胞相手でも、憎しみや苛立ちで殺すのは悪」とのお考えはその通りだと思いました。
人間同士の付き合いと同じく細胞一つであっても慈愛と敬意をもって接し、やむを得ず処断しなければならない時は、十分に身体の他の部分と合意形成を行いその上で申し訳ありませんがお取りします・・・と説明して行う事が大切なのではないかと、自分としては思う所であります。
細胞に反乱を起こされないように領主として励みたいと思います(笑)
ありがとうございました。
三宅 聖章様、こんばんわ。
そうですよね。いつも痛い所とか、気になる場所って我々が普段気が付かないような小さな変化を敏感に汲み取って、今日の体調とか警告を教えてくれている気も致します。
そう考えるとこれほど優秀な助言を施してくれるセンサーは無いのかも知れません。
自分も生活習慣の乱れと症状が出やすい時期が重なっていたことに思い当たる節がございます。身体は私以上の多くの真理に通じているのかも知れません。
優秀な領民を持って日々助かっております。
ご回答頂き、ありがとうございました。