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海外で鬱になっています

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有り難し有り難し 32

国際結婚をして海外に住んでいます。以前は義両親と同居していたのですが、心身ともに限界がきて、なんの所縁もない土地に夫婦で引っ越してきました。しかし、新しい土地での暮らしもやはり厳しく、鬱状態になっています。自分で決めて望んで来たのに…。言葉が喋れず、頼りになる人は近くにおらず、経済的にもギリギリで、将来のことを考えると不安でたまりません。
両親に相談すると、父に「逃げて来た結果や。自業自得や。日本には帰ってくるな。」と言われました。
日本でコツコツ働いて生きてこなかった自分に後悔しています。
どうか助けてください。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

カバンが教えてくれる。日本に帰ってくればいい。

本当の現実をそこであなたは初めて知った。
ダンナの愛より、家族の愛の方がホントにあなたを支えてくれていた愛だと気づけた。
でも帰れない?親に頭下げてでも帰ればいいのです。
あなたを冷たく突き放す親御さんの言葉はそれも愛。
「自分で考えなさい。自分を向上させ、自分の中に真実を見出しなさい。」という含みを持たせて受け止めてみることです。
人間は「外の世界」に楽園めいたものをイメージして追いかける。
外には無いのです。
場所じゃない。
空間じゃない。
実際にあなたが今悩んでいる場所は「どこ」でしょう。
その土地じゃない。
その土地の人は誰も泣いていない。普通に生活している。
あなたは一人で寂しく、言葉も通じず寂しい。
悩んでいる所はどこでしょうか。自分の部屋?いいえ。NO(脳)デース。
一度日本に帰ってくることです。
私の同級生も外国人と結婚して現実を知って帰ってきて醤油チューチューしてます。
ここで私の知り合いのある農家さんに登場して頂きましょう。
(*´Д`*)
「若い頃は外国のもん見んとよ、華やかに見えるだ。
生活がチゲェからよ。
うちらが食ってるもんとチゲェからなーに見てもいいもんに見えちまう。
ところが、そもそも俺らの体ってのは米とタクアンと味噌汁でできてるみてぇなモンだ。
体に染みついてっからよ?
向こう行って、毎日パンだのスープだの、変な香辛料使ってたりするもん食ってんと体が参っちまうんだよ。
やっぱり日本人ってのはヨ?
大豆ばっかり食ってっから。
たくあんが恋しくなんのよ。
育ってきた真実は今更変えらんねぇんだ。」
外国から帰ってきた時「醤油の香りがした」という方がおられます。
醤油の香りをふんだんに吸い込みに帰ってきたらどうでしょうかね。
ちょっと帰ってくるだけでも違いますよ。
あなたは単に今度どっちへどう進んだらいいかわからないのだと思います。
そういう時は一度、まず、さっさとそこから飛び出してみることですよ。
子供がいないのだったら、別れてもいいと思いますよ。
結論「帰る時にカバンに入れたいもの」が答え。
一度本来の自分を取り戻せば、それで脳が変わる。考え方も変わる。視点も変わる。気持ちも変わる。そう。あたかも大豆が醤油、ミソ、豆腐に変わりゆくように…✨(*´Д`(*´Д`)
今の脳の状態を帰るためにも一度日本に帰って醤油でサシミ食うとイイです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

守りばかりではしんどい

新しいことに取り組むことは楽しいし、元気になります。
守ったり逃げたりばかりではしんどいと思います。
帰国するしないにかかわらず、何か新しいことに挑戦する方が良い気がします。
現地の生活をSNSに投稿したりとか、もうやってるかもしれませんが。

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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ