孤独は本質?
生きている以上、孤独である筈はありません。
共存、調和の中で、存在があるのだから。
それでも、孤独。
一抹の寂しさ。
心も意識も、何もかも無い。
空である。空であるが故に、無限の豊穣がある。
でも、寂しい。
孤独を依存で解消するのは愚策だと思います。
だとしたら、人間の本質は孤独なのでしょうか。
暗中模索で、よくわかりません。。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
犀の角のご投稿唯一人歩め
月並みなことですが、「人は1人生まれ、1人死に往く」ことは揺るがざる真理であると、私は考えます。しかし、この世で生を受け、現実を生きて行くことにおいては、家族をはじめ様々な出会いがあり、別れもあります。実際、自分は1人で何者にも頼らず生きていると思っていても、陰に日向に何者かの助けによって生かされているものではないのでしょうか?大きく捉えれば、国家、社会があればこそ、定められた規範によって共生していることも事実です。
原始経典に「自らを拠り所とし、法を拠り所とし、犀の角の如く唯一人歩め」と、あります。周囲に関係を持つ人々の多少にかかわらず、最後には人に依存せず、自分の信念にしたがって、粛々と孤独を懐いて力強く現実生活をおくることが大事だと思います。
寂しいと素直に言えるあなたは素敵です
ご相談拝読しました。
「孤独は本質」ということも「共存、調和の中で、存在がある」ということもどちらもその通りなのでしょう。
私たちは私を成り立たせる全ての条件(ご縁)によって存在せしめられています。つまり、本来的にはつながりの中での存在です。
しかし私がその私を成り立たせるものを見る目はどこまでいっても私の目であり、私の認識です。
同じものを見聞きし、感じたとしても私のそれと他の人のそれは違う。他者の考えていること、感じていることが本当にはわからない。
これが「一人一世界」というある意味での孤独でありましょう。
つまり、私は私の認識を離れてない。あなたが孤独かそうでないかというよりも「孤独感」という認識の元に今あなたがあるということでしょう。
その「孤独感-寂しさ」をどうするか。他のもので埋めることもできない。元から無くしてしまうこともできない。
ならば孤独ということを明らかにし、孤独を引き受けるところにこそ孤独でありながら孤独を超えていく道があるのではないでしょうか。
つながりの中にあっても孤独であると感ずる私も、そして他の全ての人も、皆ともに仏に願われいるのだと目覚める所に大事なものがあると思います。
孤独しかないのだと開き直るのでもなく、孤独でないはずと意地をはるのでもなく、仏に願われながらつながりの中で孤独である我が身を明らかにしていく。
その道は他に依存しようとするものでなく、他と認め合えるものであり、そして時には認められない我が身に頷けるものでもあるのではないでしょうか。
質問者からのお礼
寶川良隆和尚様
仏教は真理ですから、極めて知的であるが故に、人の歩む確かな、否定し難い道であると思います。
妄想せず、迷いを破る事が出きる、そういう世界があると知っただけで有難い事です。
しかし、その道を怠るのは、罪以外の何物でもない、甘えであり、怠惰であり、勿体ないのですが、やはり、寂しさを感じる時もあります。
無明であっても、現世で面白おかしく、愛別離苦に溺れながら寿命を迎えるのも、欲にまみれるのも楽しそう。
正直な気持ちです。
しかし、一分一秒、自分で進むしか無いんですよね…。
「自分の信念にしたがって、粛々と孤独を懐いて力強く現実生活をおくること」
心に銘じます。
丁寧にお答え頂き、ありがとうございました。
吉武文法和尚様
私は、生まれは浄土真宗の盛んな地域ですから、興味はあります。
ただ、まだ勉強不足です。
「仏に願われる」とは、どういう事なのでしょうか。
大切な事のように思われました。
知恵ではなく、仏の知慧で生きるには、小賢しい人の知恵をこねくりまわしても、らちが明かない、だから、念仏に専念すべきと言うことなのでしょうか。
考えながら、拝読しました。
お答え頂き、ありがとうございました。