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無明

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無明の人と、無明じゃない人って、どう違うのですか?
どうして自分は無明になってしまったのか、
なにが原因だったのか、なにがいけなかったのか、よくわかりません。
無明に陥ることがない人もいるのですか?

2019年4月11日 3:22

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

知識として知る(知恵)のでなく事実として知る(智慧)

無明について考えていらっしゃるのですね。いや、ご自身の苦しみの元を無明に見出し、ご自身と向き合おうとされているのですね。

無明の人と、無明じゃない人がいるわけではありません。人間の構造として誰もが抱えているものです。あなたが能力的にどうだとか、そういうことではないのです。

だから私たちは仏教を学び修しても無明じゃなくなるわけではなく、無明と知る(知識としてではなく、あきらかな事実として)ということです。

そうすると、無明と知る人と知らない人では何が違うかと言うと「顛倒(てんどう)=妄想を起すこと」が起きるかどうかです。

この顛倒によって、実体的にとらえた「自分という存在(我)」への執著を起し、自分に都合の悪いものは遠ざけ、都合の良いものは貪り、思い通りにならないものには腹を立て、さらにどうしても思い通りにならない時には卑下慢として自己を責め…などと様々な煩悩となって発生していきます。

これらもなくなるわけではなく、無明をあきらかに知るところに煩悩の身のままでありながら煩悩を引き受け煩悩を活かしていける道が開かれてくるのでしょう。
(仏教本来のさとりはこれらを悉く滅し断ずるものですが、浄土真宗ではそれがかなわない我が身であると見るので上記の様な表現となります。)

2019年4月11日 7:01
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有り難し
おきもち

はじめまして。 北海道の道南地区にある若松という農村のお寺に所属しており...

「有染汚の無明」(煩悩障)と「不染汚の無明」(所知障)

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

「無明」には、大きく分類すれば二種類あり、一つは、「有染汚の無明」、もう一つは、「不染汚の無明」となります。

「有染汚の無明」は、いわゆる「煩悩障」のことで、業・カルマを汚してしまうもの(悪業になるもの)で、「不染汚の無明」は、「所知障」(煩悩障の習気)のことで、業・カルマを汚すことはないけれども、悟りの妨げになっているもののことを申します。

輪廻にあるものは、「有染汚の無明」・「煩悩障」により、業・カルマを浄化できなければ、やはり、その業・カルマの因縁(原因と条件)によって、また輪廻を彷徨うことになってしまいます・・

その由来は、「無始の頃より・・」とよく説明されますように、どこから始まったのかは分かり得ないもの(凡夫の知力では及ばない、空にして縁起なるもの)なのですが、現に、今、色々なことに迷い苦しんである自分の状態について自覚できてくれば、仏教により、その因縁の流れを知り、どうすれば善き清き流れとできていくのかが分かってくることで、この先のありようを変えていけるように調えて参りたいものとなります。(とにかく、今の結果は、突然に、何もないところから出てきたものではなく、複雑ながらにも過去の因縁によるものであることを知り、この時、この先のありようから、因縁をより善くに変えていくことに努めて参りたいものとなるのであります。)

輪廻にある衆生、凡夫であれば、「有染汚の無明」(煩悩障)と「不染汚の無明」(所知障)の両方があることになります。

しかし、ある一定修行が進み、菩薩の五十二位のうちの最後の段階における「十地」の第八地に至った聖者(阿羅漢・縁覚)であれば、「有染汚の無明」(煩悩障)が断じられており、以降の業・カルマは清浄に保てる状態となりますが、「不染汚の無明」(所知障)は残ったままであり、悟りへ至るためには、更に、この「不染汚の無明」(所知障)を断じる修行に努めることが求められるところとなります。

そして、完全に「不染汚の無明」(所知障)を断じることで、仏陀・如来と同等の悟りへと至ることができることになるのであります。

煩悩障、所知障共に、断じていくためには、確かなる菩提心の育みと共に智慧と福徳の二資糧の集積が必要となります。しっかりと努めて参りたいものでございます。

川口英俊 合掌

2019年4月12日 9:01
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

ありがとうございました。

「仏教全般」問答一覧

仏教をもっと学ぶ方法は?

こんにちは。 以前Googleで自分の悩みを検索したところ検索結果にこのサイトが出てきたことがあり、それ以来hasunohaを毎晩のように拝見しています。お気に入りのお坊さんをブックマークしているほどです。 生まれた時から仏教徒で、お盆やお参りなど特に考えずそのマナーに従って生きてきましたが、一方で神や仏、また心霊などの類は一切信じないたちです。 しかしながら倫理哲学の勉強は非常に好きで、現在もっとも興味があります。 きっかけは数年前心身共にとても傷つく出来事があり、以来リラクゼーションやアロマ、音楽など、私生活で自己を労る環境を整えていきました。しかしそれらは頭の中、つまり思想の面では自分を疲労から救ってはくれず、そのとき仏教が自分にとって非常に重要なものではないかと気づきました。(軽率な発言続いており誠に恐れ入ります。。) hasunohaをみているうち、信じるか信じないか、お祈りが届くか届かないか、極楽浄土に行けるか行けないか以前に、自分で自分を生きやすい方向に調整していく、大変学びの多い学問でもあることを理解しました。 長くなりましたが質問したかったことは、仏教を学ぶ上でビギナーの私におすすめできる学習方法を教えていただけませんでしょうか。 下記何でも構いませんので、回答いただけると嬉しいです。 ・おすすめの著書(専門用語が多すぎない、噛み砕いてある、原版の理解にふさわしい) ・近所のお寺に通うことも考えたが、用もないのに門を叩いて説法してもらうことなどはできるのか? ・合宿のような形式で学ぶ方法はあるか。どうすれば受けられるか。ある場合、実家は曹洞宗だが宗派を超えても学習はさせてもらえるか ・↑に似ているが、短期的に修行を受けることはできるか。どのお寺でもできるのか?できるお寺はどうやって探すのか ・その他いい方法があれば 可能ならば僧の方に直に毎日少しずつお話を受ける形式が望ましいですが、自分の周りでそう言った人は見かけないし難しいのでしょうか... よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 38
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どちらの宗派、教えを信じれば良いのか

初めて質問を投稿いたします。 るると申します。 私は学生時代うつ病を患い、生きていくことのつらさ苦しさと死への恐怖に悩み、救いとなる教えを求めて父方の宗派のお寺である東本願寺へ参りました。 そこで、どのような人間であってもすくい取ってくださる阿弥陀様の教えを聞き、何があっても必ず助けてくださる存在があるということに強い安心安堵感を得ることができ、その後は真宗の教えを聞く機会を定期的に作り心の支えとしてきました。 数年後、大学は無事卒業し就職すると私は非常に忙しい部署に配属され、激務と過労で再びうつ病の兆候が出てきて頭の中があらゆる雑音でいっぱいになっているような感覚に陥りました。 その時心の支えとなる教えをまた求めてお寺に行こうと決心したのですが、何故か今回はいつもとは異なる直感のような感覚で母方の宗派のお寺である永平寺に参りました。 永平寺で禅の一端を体験し、その後禅に関する本を読む中で、あるがままを冷静に見つめ自らの内の欲や煩悩を統御する教えを学び深く感動し、禅の教えをこれから生きていく中で実践したいと思いました。 前置きが大変長くなりましたが、二つの宗派の教えと出会いわたしは今どちらを信じたら良いのか迷っております。 煩悩を否定せず阿弥陀様が必ず救うとする真宗か、煩悩を統御し坐禅を通して自ら悟りを目指す禅宗か、全く異なる教えに触れどちらも捨てられないと悩んでいます。 両方を信じる道もあるのでしょうか。 拙い文章になりましたが、僧侶の皆様から何か教えをいただけたらと思います。 何卒よろしくお願いいたします。

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