無明
無明の人と、無明じゃない人って、どう違うのですか?
どうして自分は無明になってしまったのか、
なにが原因だったのか、なにがいけなかったのか、よくわかりません。
無明に陥ることがない人もいるのですか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
知識として知る(知恵)のでなく事実として知る(智慧)
無明について考えていらっしゃるのですね。いや、ご自身の苦しみの元を無明に見出し、ご自身と向き合おうとされているのですね。
無明の人と、無明じゃない人がいるわけではありません。人間の構造として誰もが抱えているものです。あなたが能力的にどうだとか、そういうことではないのです。
だから私たちは仏教を学び修しても無明じゃなくなるわけではなく、無明と知る(知識としてではなく、あきらかな事実として)ということです。
そうすると、無明と知る人と知らない人では何が違うかと言うと「顛倒(てんどう)=妄想を起すこと」が起きるかどうかです。
この顛倒によって、実体的にとらえた「自分という存在(我)」への執著を起し、自分に都合の悪いものは遠ざけ、都合の良いものは貪り、思い通りにならないものには腹を立て、さらにどうしても思い通りにならない時には卑下慢として自己を責め…などと様々な煩悩となって発生していきます。
これらもなくなるわけではなく、無明をあきらかに知るところに煩悩の身のままでありながら煩悩を引き受け煩悩を活かしていける道が開かれてくるのでしょう。
(仏教本来のさとりはこれらを悉く滅し断ずるものですが、浄土真宗ではそれがかなわない我が身であると見るので上記の様な表現となります。)
「有染汚の無明」(煩悩障)と「不染汚の無明」(所知障)
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「無明」には、大きく分類すれば二種類あり、一つは、「有染汚の無明」、もう一つは、「不染汚の無明」となります。
「有染汚の無明」は、いわゆる「煩悩障」のことで、業・カルマを汚してしまうもの(悪業になるもの)で、「不染汚の無明」は、「所知障」(煩悩障の習気)のことで、業・カルマを汚すことはないけれども、悟りの妨げになっているもののことを申します。
輪廻にあるものは、「有染汚の無明」・「煩悩障」により、業・カルマを浄化できなければ、やはり、その業・カルマの因縁(原因と条件)によって、また輪廻を彷徨うことになってしまいます・・
その由来は、「無始の頃より・・」とよく説明されますように、どこから始まったのかは分かり得ないもの(凡夫の知力では及ばない、空にして縁起なるもの)なのですが、現に、今、色々なことに迷い苦しんである自分の状態について自覚できてくれば、仏教により、その因縁の流れを知り、どうすれば善き清き流れとできていくのかが分かってくることで、この先のありようを変えていけるように調えて参りたいものとなります。(とにかく、今の結果は、突然に、何もないところから出てきたものではなく、複雑ながらにも過去の因縁によるものであることを知り、この時、この先のありようから、因縁をより善くに変えていくことに努めて参りたいものとなるのであります。)
輪廻にある衆生、凡夫であれば、「有染汚の無明」(煩悩障)と「不染汚の無明」(所知障)の両方があることになります。
しかし、ある一定修行が進み、菩薩の五十二位のうちの最後の段階における「十地」の第八地に至った聖者(阿羅漢・縁覚)であれば、「有染汚の無明」(煩悩障)が断じられており、以降の業・カルマは清浄に保てる状態となりますが、「不染汚の無明」(所知障)は残ったままであり、悟りへ至るためには、更に、この「不染汚の無明」(所知障)を断じる修行に努めることが求められるところとなります。
そして、完全に「不染汚の無明」(所知障)を断じることで、仏陀・如来と同等の悟りへと至ることができることになるのであります。
煩悩障、所知障共に、断じていくためには、確かなる菩提心の育みと共に智慧と福徳の二資糧の集積が必要となります。しっかりと努めて参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございました。