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義母の死去

回答数回答 1
有り難し有り難し 12

4月初旬に一年半、闘病をしていた
義母が、永眠しました。
葬儀・初七日も終わりましたが
まだ、義母が入院をしている様な
気がしてしまいます。
時々、義母の事を思い出して
涙ぐんでしまいます。

5月に、納骨・四十九日が
あります。
それまでに、気持ちの整理が
出来て、義母を成仏させて
あげる事が、
出来るのでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

四十九日はお互いに成仏するべき日

鐘は鐘だけではならんでしょう。
鐘木があるから鐘の音が響く。
太陽も砂漠を照らすのと花畑を照らすのとでは同じ照らすことでもまるで別物になる。
人は勝手に成仏するというものではない。
あなたの中には生前お世話になった故人様とのかかわり、おもいで、記憶、教わったこと、様々な恩恵が宿っているはずです。
だからこそ、あなたの心もさまよっている。
立派なことです。
現代人は多くの人がドライで人が死んだらそれっきり。
それは砂漠を照らす太陽に等しきもの。
生物が存在しない。
お義母さんはあなたにとっては陽日です。
照らされ育ったからにはしっかりと実をみのらせて誰かに福徳を与えてあげられるような生き方をしなければ、片方だけの一方通行。
あなたの中のお義母さんが悲しむでしょう。
迷いの心は衆生という。
衆生というのは禅宗仏教においては自身の衆生を救えと説く。
心の中の亡き人に対する何とかしてあげたいと思う気持ちでもあるのです。
それが結果的に震災後であれば亡くなった人たちの為を想い復興の力にもなる。
交通事故で痛ましい死を遂げられたら、参列の人たちが何とかしてあげたい、もうこんなことが起こらないでほしいと献花をする。その心の行為が善に向って、光に向かって、成仏に向かって進んでいく作用になる。
それを菩提心という。それを衆生済度の心という。
あなたはあなたの中のお義母さんを想う悲しい気持ち、切ない気持ちを感謝と報恩、成仏に導かなければなりません。
それが導師というもの、僧侶の導師ばかりが導くのではない。
あなたもあなたの中の心の中のお義母さんをより良き存在、より良き精霊、より良き善処へと転生させるべく仏道・仏教を学ぶことをお勧めします。
仏教は他人ごとではない。
生老病死とは他人事ではありません。
愛する人との別れ(愛別離苦)も今まさにあなたの身の上に起こっていること。あなたの身の上に生じた衆生なのです。
その衆生を救ってあげたい、救うまでは精進をやめないというのが四十九日前での慎みの生活です。
自分が思うことを優先させず、今そこに生きておられると思いながら接することです。
そうすることで、亡き故人に本当に向き合えるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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